「11月 自他ともに倖せになる道を求めて」(中旬)親鸞聖人の人間への深いまなざし

 みなさん『歎異抄』という書物をご存知でしょうか。

親鸞聖人のお弟子さんが著された書物で、永遠のベストセラーです。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という文言が有名です。

しかし、この文言は長い間、誤解されてきました。

良い人が救われるから悪人はなおさら救われるという意味ではないのです。

 阿弥陀如来は、優秀な非のうちどころのないすばらしい人間を救うために願いをたてたのではありません。

立派に生きたい、正しく生きたい、欲とか怒り・嫉み・妬みなどを超えた素晴らしい生き方をしたいと思いながら、現実にはなかなかそのようには生きられない心貧しい人を何とか救いたいと願われたのです。

自ら悟った立派な方の救いは二の次、三の次ですよというのが阿弥陀如来の教えです。

 親鸞聖人は、関東に42歳から62歳まで20年間住まわれ、10万人以上と言われるほどたくさんのお弟子がおられました。

しかし「弟子一人も持たず候」と言われました。

そこには尊い意味があります。

阿弥陀如来のはたらきであって、自分の力量によるものではないということを表現されたのです。

弟子の中には、何かの理由で去っていく者もいました。

それを「つくべき縁あれば伴い、離れるべき縁あれば離るる」と書かれています。

出会いだけが縁ではないのです。

離別もまた縁であり、これはとても大事なことです。

ご縁がありましたら、『歎異抄』の第6条をお読みになっていただけたらありがたいです。

 

 私たち日本人は、教育ということを1つに考えがちですが、教えることと育てることは違うとスイスの教育者ペスタロッチは言っています。

 彼はルソーの影響を受けました。

 ルソーは『エミール』という著書で、「人が人間を教えるには科学をもってせよ。

 しからば彼の生涯は有用ならん。

 人間の子どもを育てるには宗教をもってせわ。

 さすれば彼の生涯は幸福だ」と言いました。

 有用に人生とすることと、倖せな人生というのを分けています。

 教えるのには科学、育てるのには宗教というのは、科学を超えた人間が育てなければ人間は危険なものになると言及しているのです。

 科学技術の発達により、豊かで便利で快適に時代になりました。

 でも科学には光と闇があります。

 昔は治らなかった病気が今では治るようになりました。

 これは科学の光の部分です。

 しかし、ボタンを1つ押すと何百万の人間を一時に殺傷する兵器が生み出されました。

 これは科学の闇の部分です、