普段から法話を聞く必要がありますか?

 法話とは楽しみの場だと私は思っています。

それは話すお坊さんが冗談を交えて笑わせてくれるからではありません。

「阿弥陀様は私たちを抱きしめ、お浄土へ連れて行き、仏と成らせてくださいますよ。今この命の上に働いてくださっていらっしゃいますよ。阿弥陀様とご一緒の命ですよ。」

という、阿弥陀さまの話のことをご法話と言います。

そういった阿弥陀様の話し、お浄土の話しというのは、聞いていて有難く、嬉しく、楽しいものだから、御門徒さん方はお寺でご法座があると聞けば、幾度となく足を運びお聴聞を重ねられます。

 ご法話は信心いただくために聞くのではありませんし、賢くなるために聞くのでもありません。

唯々、信仰生活の楽しみだから聞くのだと思います。

 では阿弥陀様のことを聞いて有難いと思えない。

浄土真宗よくわからない。

聞いても全然楽しくない。

という方にとってはどうでしょうか。

普段から法話を聞く必要はあるのでしょうか?

 ご法話が楽しみだという気持ちは初めから沸き起こってくるものではありません。

「法話を聞いてもつまらんな、わからんな」と愚痴をいいながらお聴聞を重ねる日々が必ず必要です。

ご法話を聴聞する意味の一つに、阿弥陀様のお育てにあずかる。

ということが言えます。

阿弥陀様の話を聞いて仏の子として育てていただく、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す仏の子に育てていただくのです。

 「南無阿弥陀仏」とお念仏いただく私たちは、ただの煩悩を抱え、悩み苦しみ虚しく命終わっていく凡夫ではありません。

仏になると約束された凡夫です。

欲の赴くままに生きていた私が、仏になると約束された命を生きるということです。

阿弥陀様のみ教えは死んだ後の救いではなく、今ここでの救いこそが浄土真宗です。

学生には学生の悩みがあり、社会人には社会人の悩みがあり、歳を重ねた方には歳を重ねた方の悩みがあります。

みんなが少なからず悩みを抱えて生きているのかもしれません。

その悩み寄り添ってくださるのが阿弥陀様です。

歳を取ったら聞こう、病気になってから聞こうではなく若い時からご法話をお聞きいただきたく思います。

 そうやって阿弥陀様のお育てにあずかる中で、

「これまでご法話はまったく、わからなかったけれども、今思えばそうかもしれないな。なるほど確かにそうだな。」

とうなずける時が来るものです。

 どうぞつまらん、わからんといいながらご法座へ足をお運び、お話をお聞きください。