親鸞 2016年12月14日

 すべてが自分の心から映して、心を恐怖させたり、呪わせたりしていた錯覚だった。

水に映っていた形相の悪い影だった。

 平次郎は、水に返った。

まだ澄みきったそれにはなれないが、本来の性(しょう)が心の底から湧きあがって、

「すまない……お吉……すまなかった……」

 両手をついて、自分の妻へいったのである。

お吉は、夫婦となってから、初めて良人の口から、こんな真実の声を聞いた。

「あれ……勿体ない」

良人の手をすくい取って、

「女房に向って、すむもすまぬもござんせぬ。その詫びなら、なぜ、わたしよりも、御仏さまへいうては下さいませぬか」

「? ……」

平次郎は、唖(おし)のように、黙ってしまった。

慚愧にふくれあがっている額(ひたい)の青すじが、彼の性格の中でありありと苦悶していた。

「のう、お前さま」

お吉は、今こそ、良人の年来の気もちをここで一転させようとするのだった。

「? ……」

だが、平次郎は、うなずかなかった。

 じっと、圧(お)し黙っている。

強情な一徹な気性を、さながら二つの拳にあらわして、膝にかためたまま、黙っている。

「のう……」

お吉のやさしい耳元のささやきにも答えないで。

 前には、上人がいる。

弟子たちがいる。

 また、城主、郡司、その臣下、そして、集まっている無数の民衆がいる。

 そのすべてが、仏の帰依者である。

けれど、平次郎にはまだ、

(ウム)と、素直にいえないらしい。

 なぜ。

それを平次郎は今、あたりの人々に憚(はばか)って口にいえないらしかったが、彼の気持をもし率直にいわせるならば、

(仏なんてない)と、自分に教えたのは、仏に仕える人であり、

(神もない)と、自分の頭脳(あたま)へ沁みこませた人も、また、神に仕える人だったのである。

 彼が、お吉との間にもうけた愛児は、ない神をあるように思い、ない仏をあるように信じたから、死なしてしまったのだと考えていた。

 いいかげんな僧侶だの、怪しげな山伏だの、そういう類(たぐい)の者に信仰へ導かれて、彼は、たった一人の可愛い子を死なすために、夫婦して、食べる物も食べず、着るものも着ず、稼いだ金や、ささやかな蓄えを、みんなそれらの祈祷料だのなんだのに捧げてしまったのである。

 そのあげく、子は死んだ。

お神札(ふだ)だの、お水だの、仏壇だの、なんだの、すべては彼の眼に忌わしく見える物を、一抱えも持って行って、溝川へ芥(ごみ)のように打ちすててしまった時に、平次郎は、

「――笑わかしゃアがる、これで罰があてられるものならあててみろ」

と、天へ向って罵った。

 それからは、

(神だと、仏がだと、ふふん……)彼の性格は、また信念は、そうなってしまった。

 誰にだって、彼は、そう信じていることでは、退かずにいい争ったものである。

――だた、親鸞だけは、さっきから、なんとなくべつもののような気はしていた。