さつまの真宗禁教史 1月(後期)第一章 真宗の展開と禁制政策

前回にひき続き、真宗禁止の理由について古くから伝わる説を紹介いたします。

④秀吉の薩摩侵攻と顕如下向説

本願寺十一世顕如が、天正十五年(1587)五月、秀吉の薩摩侵攻に同行した。

そのために九州の門徒は競って兵糧・金品を秀吉軍に進上した。

また獅子島(鹿児島県出水市)の地理に明るい一向宗の僧侶が秀吉軍は海路をとるように進言した。

この功によって秀吉が顕如に京都の堀川六条に寺地を寄進し本願寺を造営した。

一方、島津氏は本願寺のこうした行動を怒り真宗を禁止した。

という説。(『日本外史』)

⑤日新菩薩禁止説

日親菩薩禁止説につきましては、また後で出てきますのでその時解説します。(『一向宗御禁制由来』)

真宗禁制の理由について以上のような五説があったことを紹介しておきます。

 

2.真宗の伝播

ところで、この鹿児島地方にいつごろ念仏(真宗=本願寺の教線)が伝わったか、という問題ですが、鹿児島に関する真宗史料の一番古いものが、永正三年(1506)に本願寺九代宗主実如が、薩摩国の千野湊(宮崎県串間市)の釈明心という門徒に下附したご本尊(方便法身尊像)(和歌山県海南市浄国寺収蔵)です。

この頃は、鹿児島地方に本願寺の教線が伸張していたことは明らかです。

ちなみに大分専想寺の開基天然が蓮如に帰依した事実があり、また北九州市小倉の永照寺にも永正三年に実如が本尊を下付した形跡があることから、九州地方に本願寺の教線が伝わったのは室町時代の中ごろであったといえます。