平成29年2月法話『平等心 違いを認め合う心』(中期)

『正信偈』の中に「邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」という言葉があります。

「邪見」とは自己中心でどこまでも自己に固執するあり方のこと。

「驕慢」とは、おごりたかぶって他を見下し身勝手な振る舞いをするあり方のことです。

私たちは、ものを見たり考えたりする場合、いつも自己中心的であり、その輪を広げても家族が中心であり、自分の生まれた国が中心であり、最大限広げてもせいぜい人間中心までです。

私たちは、自己中心、人間中心に生きて行こうとすることによって、ついにはこの世界を人間にとって都合の良い世界に変えてしまいました。

しかし、それと同時に他のいのちにとっては生きにくい世界にしてしまいました。

具体的には、多くの自然環境が破壊され無数の生き物が絶滅しました。

当初は、人間中心のあり方は人間にとって都合の良い世界になったのですが、他のいのちにとって住みにくい世界は、実は人間にとっても決してこのましい世界ではないということが次第に明かになってきました。

その一つが、年々深刻化している地球の温暖化の問題です。

そのことに対処するため、温暖化の原因となる二酸化炭素排出量の削減について各国が話し合う機会を持つのですが、それぞれが自国の利益に固執するため、排出量削減の目標を達成するのは極めて厳しい状況にあります。

まさに、邪見の心が自分だけではなく、いま世界を危うくしてしまっているといえます。

また、日々の生活において、私たちはいつも無意識のうちに自分と他人とを比較して、その人より上だと優越感に浸り、その人より下だと劣等感に悩まされたりすることがあります。

一般に、優越感と劣等感とは相反する感情だと思われているのですが、実はどちらも同じ心のありようなのです。

私たちは、いつでも自分が他に対して上でありたいものです。

もし「本当にかなわないな」と素直に頷くことができれば、劣等感にさいなまれることもありません。

ところが、自分が下だと認めたくないにもかからず下になっているため、劣等感に悩まされてしまうのです。

このような劣等感と優越感の根底にあるのが、同じ驕慢の心です。

この「邪見驕慢」の心のままに生きる時、私たちは日々様々な事実に出会っても、その事実に学ぶこともなく、互いに頷き合って生きるということもないままに、予め自分が持っている物差しでものごとを受け止め、ものごとを考えるというあり方を繰り返してしまうことになるのです。

私たちは、いろいろなことに対して、事実をあるがままに見ているつもりになっているのですが、よくよく考えてみると、いつ身につけたのか分からないような先入観や固定観念によってものごとを見て理解したつもりになり、自分の物差しによって評価を下してしまっているのです。

そのため、私たちはともすれば何かにつけて全部を決めつけてレッテルを貼り、それで分かったつもりになってしまうことが少ながらずあります。

たとえば、「近頃の若い人は…」とか、「○○人は…」などと、十把一絡げにして、具体的には一人一人と真向かいになって、一人一人を見つめ、一人一人の心を静かに聞こうとすることもなく、自分の思いだけで外側からレッテルを貼って決めつけてしまうのです。

それは、相手を理解するより判定することを優先し、問うことよりも答えることを大切にしているあり方です。

以前、ある大学が外国から留学してくる人たちのために寄宿舎を建てる計画を発表したところ、地元の人たちが反対運動をされるということがありました。

そして、どうしても建てるというのなら、寄宿舎の周りに塀を建てたり、夜はその塀をライトで照らしたりするなど8カ条の条件を大学に申し入れをされました。

その理由は「日本人なら信用できるが、外国人は信用できない。住民とのトラブルが予想される」ということでした。

けれども、その地元の方がたは「信用できない」という外国の人と、誰一人会ったことがある訳ではありませんでした。

むしろ会っていないからこそ、「外国人は信用できない」というレッテルを貼ってしまわれたのだと思われます。

世界を見渡すと、民族が違う、宗教が違う、思想が違うなどといった「自分との違い」によって多くの対立やあり争いがあります。

融和から分断へという方向に流れつつある感じですが、その根底には、まさに「邪見驕慢」の心が渦巻いているように思われます。

邪見驕慢が生み出す悲惨な対立・争乱・分断を克服するために必要なのは、何よりも「違いを認め合う心」なのではないでしょうか。