必死のパッチの半世紀(中期)壮絶な幼少年期を生き抜いて

うちは3人家族で普通の一般家庭と思っていたのですが、私が12歳のときに母親が蒸発し、その1年後に父が蒸発し、結局私はひとりになってしまいました。

父親がギャンブル依存症で、母が内助の功で一生懸命切り盛りしていたのですが、闇金融などのいろんな債権者の方々が父の借金の取り立てに来ました。

これはかなわんと、母がノイローゼ気味になってしまって、私が小学校6年生のときに私を連れてではなく置いて、勝手に出て行ってしまいました。

近場に住之江区というのがあったのですが、住之江区は競艇のメッカです。

父は、とにかくなにかにつけてそこへ行く。

一攫千金を狙うわけです。

競馬・競輪・競艇、挙句のはてには、自宅でも畳を上げ、白幕をひいて「丁・半」と始めるという始末でした。

そうなると家庭が崩壊するのは時間の問題です。

それで母が出て行った。

子どもとしては母親が去って行ったということは裏切り行為だと思いましたが、それでもいつかは帰ってくるだろうと待っていました。

3か月経ち、半年経ち、1年経っても帰ってこず、仕方なく父親と一緒に暮らしていました。

その父親も段々と借金で首が回らないようになってしまい、普通であれば、私を連れてどこかへ逃げる、それならまだ良かったのだけれども、私1人を置き去りにして、自分だけ勝手に逃げていってしまったのです。

私は、そんな家庭環境で育った子どもでした。

中学1年、2年というのは一般的には反抗期といわれますが、誰にも反抗すらできないような状況でした。

反抗期というのは誰かがいるから反抗できるのだけれども、反抗する相手がいなかった。

そんなことより、とにかくなんとかして自分の生活を守らなければならなかったのです。

毎日のように借金の取り立てが来ました。

夜中の11時半に始まって、2時半、4時半と3つのグループがメンバーを変えて来るわけです。

取り立てのいかつくて怖い兄さんが、土足で入ってくるわ、そこらを蹴りながら入ってくるわ、子どもの私が胸ぐらつかまれて「父親はどこ行った」と寝起きを襲われました。

「知らないんです」といいますが、取り立ては毎日のように来るんですよ。

最終的に私も追い込まれて、子どもながらに、これちょっとやばいと感じて、取り立ての兄さんに一生懸命気持ちを伝えました。

「すいません、助けてください、助けてください。生活できないんです。面倒みてください。すいませんけど、お金貸してください」

って取り立てに来た兄さんに言ったのです。

そしたら、ええ時代、昭和のいい時代ですわ。

取り立ての中の人がおもむろに財布出してね、聖徳太子の5千円札を1枚置いて

「なんで借金の取り立てに来て、お前に金を渡さなあいかんねん」

って言って、帰られました。

「すいませんです。ありがとうございます」って言いながら、後ろ姿みたら「今度いつ来てくれますか」って声をかけたいくらい、そんな感じでした。

もうええ人、善人に見えたわけです。

それが、つまり、必死になって、一生懸命に人に向かって喋った挙句にもらえた初めてのギャラで、5千円だったのです。

電気は止められる、ガスはもちろん、電話なんてとんでもない話です。

ただ、水道を止めたら餓死してしまうんで、水道だけは止められず、ありがたかったですね。

この5千円を生活費の元手にアルバイトもしながら、とにかくぐれる暇もありませんでした。

この「喋り(しゃべり)」については、後にやはり母親のDNAだと思いました。

子供ながら、近所のおばさんと普通に喋れるという子供でしたし、人前で喋ってお笑いをとるということも好きでした。

しゃべるという社交的なところを母から受け継いだことだけは一番ありがたかったと感謝しています。

それから、ラジオ番組で覚えた芸が身を助けました。

ラジオから流れてくる落語を録音して、紙に書き起こし、そして自分が書き起こしたものを見ながら、素人(しろうと)ながらに右向いたり、左向いたりして喋っていました。

当時そういう素人番組がありまして、オーディションに行ったら受かってというようなことで、賞金を稼いだ分が生活費になったわけです。

その頃、こどもながら家計簿もつけていました。

家賃がどれぐらいで、食堂の付けがなんぼ溜まってるとか。

そして、それを払い終えていくというような生活能力を身につけました。

ご近所のパン屋のおばさんとか民生委員とおばさんとか、周りの人たちも見守ってくれていました。

今でしたら保護施設へ行くとこですけど、近場の方々が施設のような感じで見守ってくれていた状況でした。

それが本当に、なんというか、ありがたかった。

いい時代だったんやなと思います。