さつまの真宗禁教史 3月(中期)

7 宗門改と宗門手札改

しかし、真宗取締りの制度が整備されて摘発が本格的に行われたのは、寛永十年(1633)以降でした。

すなわち、寛永十二年(1635)幕府が全国的にキリシタン改めを行ったのにともない、薩摩藩でも宗門改と藩独自の宗門手札改の制度を施行しました。

それについて宝永七年(1710)薩摩藩が幕府に宗門改について回答した「上使御答書」には「キリシタン改等の件、薩摩藩では各人がそれぞれ旦那寺を決定して、その寺に所属した証明を受けます。

生まれた子供も同様に旦那寺を決めます。

そして五年に一回、「宗門手札=しゅうもんてふだ」という、名前と宗旨を記入した木の札をすべての男女に交付します。

結婚や転居する時はこの手札と発行元寺院の証明書を必要とします。

また毎年二度の宗門改を実施して、その首尾を支配頭より役所に報告します」。

(歴代制度・四〇)とあります。

そして、この時薩摩藩は五人組を制度化して、五人組の中から一向宗徒やキリシタンが発覚した時は連帯責任を負わせるなど、民衆への支配をさらに強化しました。

(鹿児島県史一)

8 横目と宗門取り締まり

ところで、先の寛永十一年(1634)の幕府への宗門手札改めの実施説明書では、キリシタンの取り締まりが中心であり、直接一向宗徒の取り締まりについては触れられていません。

しかし四年後の寛永十五年(1638)五月十八日付の覚には

一きりしたん 一うせ衆之事 一不審成旅人 一博奕之事

一一向宗之事

右は、鹿児島上下之横目衆江見立候て可被申出候由被仰渡候

とあり、横目をもってキリシタン、うせ衆、不審の旅人、博奕と共に一向宗の監察が行われることになりました。

(一向宗御禁制由来)