さつまの真宗禁教史 3月(後期)

9 士族の宗門監察

そして、城下の士族に対しては組の制度がしかれて組を通して宗門の査察を行いました。

寛永十九年(1642)月十三日付の「組頭衆へ被仰出候条々」(旧記雑録九九)には、「組中に切支丹並に一向宗あらば、糺明言上すべし」とあり、組頭が組士の信仰を監視しました。

そして毎月二日には組頭は組士を集めて、

幾里支丹宗は幕府大禁の条、領内之を守るべし、自然隠居る者あらば見立聞立申出るべし、幕府褒美の外に藩主の褒美を遣すべし、一向宗は仔細あり、当家代々之を禁止する。

違犯の者あらば貴賎によらず、宗門改人その他支配頭へ申出るべし

という条文を含む「毎朔候覚」(旧記雑録37)を読み聞かせ(識字率が低かったので)、キリスト教と真宗は禁止されているということを忘れないように徹底したのでした。

また、同二十年四月ころより大島長次郎・壱岐源左衛門の二人が諸外城を巡回して、各郷のキリスト教と一向宗徒の取締りのために横目を任命しました。

(御当家様就一向宗御禁止愚案補遺)

その後、宗門取締りの制度と組織はさらに整備され、明暦元年(1655)、宗門取締りの専門職である宗体座が設置されました。

そしてこの宗体奉行に若松助左衛門久昌・宮里五右衛門正行の二人が任命され、伊地知左衛門・白坂左京篤林・西田和泉時通の三人が「暖=あつかい」として真宗信者の摘発にあたり、弾圧は本格的に行われることになりました。