仏法-私を映し出す鏡

親鸞聖人が「真実の教」と言われる『無量寿経』に「五悪段」と呼ばれている一節があります。

ここには、私たち人間社会のさまざまな悪の様相が描かれているのですが、その内容は現代社会の姿をそのまま物語っているように思われます。

今それを引用すると、

この世には五つの悪がある。

一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている

二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。

ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。

三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。

ともに尊敬し合うことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。

五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。

部分的には頷くことができても、「自分や自分の家庭はここまでひどくはない」と反論されるかもしれません。

けれども、改めて自分の心をじっと見つめ直すと、果たして「自分は常に正しい道を求めている」と断言することができるでしょうか。

また、たとえ今はこのような状態に陥っていないとしても、今後このような過ちを絶対に犯さず、正しい道を歩み続けることができると確信することができるでしょうか。

『歎異抄』には、「私たちは一定の条件が揃えば、何をするか分からない」と、説かれています。

私たちは、その時に置かれている状況によって、どのようなことでもしてしまう可能性があるのです。

私たちは、自分の過去の行為を振り返って、その時々の善悪判断することはある程度可能かもしれません。

けれども、現在していることについては、常にそれが自分にとって「最善だ」と思ったことを実行しているため、その瞬間においては、真の意味で善悪の判断をすることは非常に困難だと言えます。

確かに、親子、兄弟、夫婦、親族などが「おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない」というのは例外的なことだと思われますが、「強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている」という箇所は、世界の各地に見られる状況そのままです。

また「互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をする」という箇所も、一般社会においては考えられないことですが、世界的に有名な企業が粉飾決算を発表していたことが発覚したり、長年データの改竄・捏造を繰り返していたことなどが報じられたりすると、事件が明るみに出るまで、これらに関わっていた人びとは、自身は「互いに励まし合って、善い行いをしていた」つもりでいたはずなのですが、結果としては「自分のために、ともに教え合って、悪いことをしていた」ことになります。

私たちは、この「五悪段」を読んでも、自分をその外に立たせてその内容を眺めようとします。

そして、常に自分を善人の側に置いて、世の中の悪事を非難するのですが、そのようなあり方こそ、この中で「自分だけが偉いものであるかのように考え」と述べられている姿にほかなりません。

善導大師は「経教はこれを喩うるに鏡の如し」と、「仏さまの教えは、鏡のように私を明らかに映し出すものだ」と説いておられます。

そうすると、真の意味で教えと向き合うと、私たちはこの「五悪段」に示されるような心しか持ち合わせていないということに気づかされることになります。

私たちは、この悪の自覚において、初めて自分の愚かさを知り、なんとか正しい仏道を歩みたいと願うようになるのですが、どのような善をなそうと努力しても、むしろ成そうとすることによって、どこまでも自己中心的なあり方を捨てられない自分の愚かさを痛感させられることになります。

けれども、阿弥陀仏の本願とは、このような自らの悪を自覚する人をこそ救いの目当てとして建てられたものです。

そして、このような人こそ、どうすることもできない自分自身の悪への恥じらいの中で、阿弥陀仏の「念仏せよ、救う」という教えに心から頷くことができるのだと言えます。

私たちは、お世辞と分かっていてもほめられると嬉しいものです。

一方、本当のことであっても注意されると、つい反論したくなります。

そのような私たちに対して、仏教は私の愚かさをあるがままに明らかにしてしまうため、その語りかけは決して耳に心地よく響くものではありません。

しかしながら、そのような教えだからこそ、常に私をあるべき姿に引き戻し、生きる勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。