「いのちは平等」-仏教の原点-(後期)いのちへの尊敬

例えば、子どもがごはん粒を床へ落としたらどうしますか。

「もったいないから拾って食べなさい」、これがいのちを大切にすることです。

今の親は違うんじゃないですか。

「汚いから捨てなさい」。

床に落ちたごはん粒に少々ゴミが付いたのを食べても下痢なんかしません。

そういうこと一つひとつを振り返ったときに、子どもの責任じゃないんです。

私たちの生き方が反映してるんです。

子どもたちは世間を知らないし、世間ずれしてないから、まともにそれを受けて極端な行動になるわけですね。

大人はずる賢いから、適当に抑えているだけです。

私たちは本当に「いのちを大切に」「自然破壊をやめましょう」と言ったときに、私たちが困るからやめましょうではなしに、それぞれのいのちの尊さに手を合わすことによって、やめましょうと言っているのかいないのか、そこの違いが基本的にあるんですね。

そこのところをきちっと押さえないで、子どもの批判をしちゃいけませんね。

子どもは親を、あるいは大人を見て成長してるんです。

私たちは「自然破壊をやめましょう」ということ一つについても自分勝手でしょう。

人間の都合だけで考えている。

すべてのいのちに対する尊敬を失っているんですね。

だいぶん前ですけど。

私がブータンへ行ったときに、現地のお寺にお参りに行きますと、深い谷がありまして、谷の向こうの反対側にお寺があるんです。

それを横目で見ながらジープでずっと一時間ぐらい上っていくと、谷がどんどん狭くなっていくんですね。

すると、狭い所に橋が架かっていて、そして、向こうへ渡ったらまた逆戻りして、結局二時間ぐらいかかってお寺に着くんです。

お寺に行く途中、谷の反対側だけれども、私が横目ですぐそこに見えるお寺を眺めていたら、ブータンの人が笑って「先生、今何を考えているかわかりますよ」と言うんです。

「えっ、わかるのか」と聞くと、「ここへ橋を架ければ五分で行けるのにと思ってるにちがいませんか」と言うんです。

そして

「しかしブータンはそれをしません。私たちは自然も私たちと同じいのちを生きているんです。だから、できるだけいのちを傷付けないように、自然破壊をしないようにして、遠回りをしてでも谷が一番狭くなっている所へ橋を架けるのがいいんです。ブータンにおいて開発は悪です。日本では開発は善であす、いいことだと言って発展しているけれども、ブータンは違います。開発はいいことじゃありません。悪いことなんです。ここが日本とブータンの違いです」

と言われて、まいったと思ったわけです。

そういう国があるということを、私たちはどこか忘れてしまったんですね。

やっと日本も戦後五十年たって、間違っていたなということに少し気が付いて、逆戻りが始まったのは結構なことだと思いますが、そういう時代の中で私たちは生きています。

まず、今生きている日本の状況はどうなっているのか、そして私たちはそんな日本の中でどういう生き方をしているんだろうかということを、自分の問題として確かめてもらいたい。

すべて人間中心にものを考えるヒューマニズムに陥っているのではないか。

そういう生き方をしている私たちに対して、仏教はどのような問いかけをしているんだろうかということですね。