どのような教えをよりどころにするか

以前からよく言われていることですが、日本人は街角などでマイクを向けられて、「あなたの宗教は」と尋ねられると、「無宗教」と答える人が多いと言われてきました。

さらに、そう答えた人に、重ねて「では、仏教というのはどのような教えかご存知ですか」と尋ねると、「よく分からない」という答えが返ってくるそうです。

そうすると、その人は「無宗教」ではなく、「無知宗教」というべきではないかな、と思うことです。

また、「仏教」と答えた人に、「では、仏教にはいろいろな宗派がありますが、あなたはどちらの宗派ですか」と尋ねると、「分からない」という人や「浄土真宗」と答える人もいたりします。

そこで、浄土真宗と答えた人に、「浄土真宗とは、どのような教えですか」と尋ねると、大半は「よく分からない」という答えが返ってくるようです。

「よく分からない」という人たちに「なぜ、浄土真宗と答えたのに、どのような教えか分からないのですか」と尋ねると、「私が浄土真宗なのではなく、私の家が浄土真宗なのです」という答えが返ってくるのだそうです。

これは、宗教に二面性があることに起因します。

一つは、外面における連続性で、「私の家が…」と言われるように、親から子へ、子から孫へという伝わり方の流れです。

けれども、内面を窺うと、そこに浮かび上がってくるのは「断絶」です。

これは何も親子の断絶ということではなく、自動車の運転免許証にたとえると分かりやすいのですが、親・子・孫の三代に渡って自動車の運転をしていても、互いに運転免許証の貸し借りはできません。

それぞれ交通法規についての講習を受け、実技・筆記試験に合格した上で、一人ひとりが運転免許証を取得して自動車の運転をしているのです。

これと同じように、宗教においては、私が教えを聞き・教えに出会い、教えをよりどころにする、つまり「聞く・会う・帰する」という三つの事柄が成り立って、初めて「私は…」と言いうることになります。

また、宗教という言葉の確かめをしていくと、生きていく上で「無宗教」ということはあり得ないということが分かってきます。

「宗教」の「宗」は「むね」という読み方をします。

私たちは、生きていく中で、常に何かを自分のよりどころ、言い換えると何かを支えとして生きています。

それを具体的に言葉にしたものが「教」ですから、仏教とか神道、キリスト教等とかでなくても、「この世の中はお金(財産)があれば何も不安はない。

私にとってはお金こそ生きる支えだ」と信じている人は「財産教」という言い方をすることができます。

あるいは「仕事が生き甲斐だ」という人は「仕事教」、趣味に生きている人は「趣味教」、「家族への愛情が生きる上での最大の喜びだ」という人は「愛情教」、「自分は自分以外の何ものもよりどころにしない。信じられるのは自分だけだ」という人は「自分教」と言い表すことができます。

そうすると、「無宗教だ」と思っている人は、自分が何を支えにしているのか分からない、いわば「訳の分からない生き方に終始している」ということになります。

では、自分の「宗」とするものが何なのか分かったら、それがゴールかというと、それはスタートです。

なぜなら、自分が一生を託そうとしているその「宗教」が、「真宗」まさに真実の教えであれば良いのですが、「偽宗」だったとしたらどうでしょうか。

一度きりのこの人生を棒に振ってしまうことになりかねません。

かつて日本に、オウム真理教というカルト教団がありました。

教祖を尊師と仰ぎ、「この人について行こう」と、家族を捨ててまで入信した人たちが、いったいどのようなことになったかというと、周知のように何とも痛ましい悲惨な結末を迎えました。

近年、世界各地でテロを引き起こしているイスムラ国の信者は、自爆テロを行う際「神は偉大なり」と叫んで凶行に及んでいるそうです。

けれども、自爆テロ、具体的には無差別殺人を犯したテロリストが偉大なりと讃える神は、その天国にやって来たテロリストを「よくやった」と、自爆テロを善行と評価して優しく迎え入れてくれるのでしょうか。

もしそうだとすると、テロリストによって無残に殺された人たちから見れば、それは偉大なる神などではなく、悪魔以外の何ものでもないのではないでしょうか。

善導大師は「真宗あいがたし」と述べておられます。

これは、「真実の教えは人間の力によって作ることはできない」ということを明らかにされた言葉です。

人間は、真宗に出会えないと、偽りの宗を自分で勝手に作り出し、それをよりどころにして生きようとします。

まさに、オウム真理教やイスラム国などは、人を正しい方向に導かないばかりか、正義の名において深い迷いの中に陥らせる邪教の典型だといえます。

私たちは、どのような教えをよりどころとして、この一度限りの人生を生きていけばよいのでしょうか。

それは、何よりもまず「教えを聞く」ことから始まります。

聞かなければ、いつまでも真実の教えと出会うことはありません。

私は、いったい何を真の宗(よりどころ)として生きれば良いのか。

そのような、人として問うべき人生の問いを持って教えを聞くとき、真実の教えは確かな生き方を私に語りかけてくれます。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。