平成29年8月法話『争いの種は私の心から生まれる』(前期)

色々な方と会話をする中で、言われた言葉にムカッとしてしまう事が時々あります。

なぜ私はその言葉にムカッとしたのかを少し考えてみたいのです。

仏教では諸法無我を説きます。

大変難しい言葉です。

諸法無我とは「私のもの」と呼べるものはどこを探してもないという事です。

すべての物事は因縁によって一時的に成り立っている実態のないもので、この私の身体でさえも「私のもの」ではないのだよというお釈迦様の教えです。

しかし私は、この身体を諸法無我であり「私のものではない」と思えるはずもありません。

もし、そう思えたならばどんな言葉を浴びせられようとも痛くも痒くもなく、ムカッともしないはずです。

この身体は、私のものではないのですから。

しかし、煩悩具足の凡夫と言われる私たちはそこに執着をもちます。

私(我)への執着を我執といいます。

自分に執着をするからこそ、その私に向けられた言葉が悪口となりムカッとします。

自分に執着をするということはそのまま自分の好きなものにも執着をしますから、好きなもの(人)を傷付けられたり、取られたり、壊されたりするとムカッとします。

そこから争いへとつながる事もあるでしょう。

つまり、外から言われた言葉がムカッとした原因と思いがちですが、よくよくお釈迦様のみ教えをいただきますと、無我であるはずの我(私)に執着の心をおこしてしまうこちら側に原因があったと気付かされます。

「修行」という言葉をよく聞かれると思いますが、これは煩悩をコントロールし、執着心を無くし悟りの境地に至るというものです。

しかしながら、親鸞聖人はこのようにおっしゃいます

「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」

20年間の厳しい修行のすえ、悟り至ることができず比叡山を下りられた親鸞聖人は、この煩悩や執着心は臨終まで無くなることはないといただかれました。

そしてご自身の姿を「愚者」とおっしゃりました。

比叡山を下りられた親鸞聖人は、法然上人のもとで阿弥陀様のみ教えに出会われました。

それは愚者を決して見捨てはしない、必ずお浄土へ生まれさせ、悟りをひらかせるという南無阿弥陀仏のおはたらきでした。

親鸞聖人は煩悩具足の凡夫であり、我執から離れることができない愚者の悲しさ、くやしさを南無阿弥陀仏に出会えた慶びに転換していかれました。

争いの種は、私の執着心であります。

それゆえ他人を傷付け自分をも傷付けて生きてゆかなければならないのでしょう。

その私を包み込む大きな大きなはたらきが南無阿弥陀仏であります。