「念仏」は、たくさん称えるほど功徳があるのですか?

一般的に「功徳」という言葉は、善い行いによって得られる善い結果、つまり利益(りやく)や利得という意味で用いられることが多いようです。

しかもその利益とは物質的肉体的なものを主としています。

たとえば、お金とか物とか健康などといったものでしょうか。

しかしここでよく考えてみなければならないのは、かりに私たちが望むそのようなものが何でも得られたら、ほんとうに幸せになれるのかということです。

確かに貧しい人にお金が与えられ、病気の人が健康になったら幸せを感じることができるでしょう。

しかし、しばらくはそれでいいでしょうが、やがてきっとそれ以上のものを望むようになるに違いありません。

そしてそれも与えられたとしたら、今度はきっと持てるものの悩みを味わうことになるでしょう。

持てる者には持てる者の悩みがあり、持たない人には持たない人の悩みがある。

これこそ私たち人類が何万年もの昔から、くりかえし経験してきた人生のすがたではないでしょうか。

私の望むものが何でも与えられるということが、かえってそれによって苦しみに変わることもあるのですから、そのようなものはほんとうの功徳とはいえません。

有ればあってよろこび、無ければ無くてもよろこべる。

安心して生き、安心して死んでいける、そういう私たちの有無を超えたまことのよろこびを恵まれるものが、お念仏の功徳といえるのではないでしょうか。

現実の私の有り様は、自己中心的なものの見方を離れることが出来ないゆえに、多くの悩みや苦しみを抱えていかねばなりません。

しかしそのような私であるからこそ、はかることの出来ない智慧と慈悲をもって、有無を超えたまことの功徳を与え、「決して見捨てはしない。我にまかせよ、必ず救う。」と、阿弥陀さまのお心そのものが、南無阿弥陀仏のお念仏となって、つねにはたらいて下さっています。

その阿弥陀さまのよび声を、そのままに聞き受け容れて、「もったいないことでございます。有難うございます。」とお礼を申している姿が、私どもの念仏を称えている姿であります。

しかし、私たちのそうしたこころはいつまでも続きませんし、次の瞬間何が飛び出すか、わからないのが私のありのままの姿でもあります。

ですから少しでもそうした阿弥陀さまのおこころが私の中で持続するように、お念仏は場所や時間を選ばず日常的に称え、親しむということがとても大切なことであると思います。

お念仏をよろこび、口に出して日常的に称える人は、阿弥陀さまのおこころによって、その人の感性が育てられていきます。

それほどにすぐれたまことの功徳が、南無阿弥陀仏のお念仏にはすでにそなわっております。

ですからお互いにもっと口に出してお念仏申していきましょう。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏