さつまの真宗禁教史8月(前期)

出水郷における一向宗徒の摘発―その6―

前回にひき続き「出水に於ける一向宗禁制史料」(『日本庶民生活史料集成』第十八巻所収)を意訳して一向宗徒探索の様子を見ていきます。

酉年(寛保元年=1741)、宗門御改衆が当地に出張されて胸替(宗旨替)の誓詞を命ぜられ、一度は治まったはずですが、いまだに一向宗を執り行う者がいるとの噂を聞き、その旨を御地頭所に次のように上申しました。

―去春、衆中・百姓ら百十人余りを“ 召籠”の罪に処せられました。

一向宗の科による「籠込」の処分は前代未聞の重罪であり、その後はいかに愚鈍な者でも一向宗は軽い犯罪とは思っていないはずです。

しかし今度、頭取が明らかになり尋問されましたが、彼らは色々と申し開きをして決着がつきません。

そこで、内密に衆中遠竹武右衛門に話を聞きました。

それにより明らかになったことは、次の通りです。

書きつけをもって申し上げますー。

  • 一、一向宗を執り行うことは不届きなことであり、去春五十余人が“召籠”の罰に処せられました。
    特に平松では、多数の衆中・百姓が“召籠”の処分をうけました。
    その中には、本人は一向宗でなくても連帯責任で捕縛された親類の者もあり、懲りたはずですが、そうした様子もありません。
    一向宗執行はその頭取が中心となったはずで、どうしてそうしたことを企てたのか尋ねましたところ、武右衛門の口上は次の通りでした。
  • 一、 去春“召籠”の罰を受けた後二か月間は一向宗を執り行うことはありませんでした。
    ところが水流喜兵衛が「数年間、大切にしてきた仏様を今のように粗末にしていてはいかがか」と言い出し、法要の計画を企て、村山弥五右衛門宅へ、私(武右衛門)・緒方軍弥左衛門・吉井十左衛門・遠竹休助父子その他頭取が集まり、しばしば法座を開くようになりました。