挨拶の力

一年ほど前のことです。

2016年11月4日付の神戸新聞の読者投稿欄『イイミミ』に寄せられた住民同士の「あいさつ」に関する投書が、インターネット上で賛否両論の波紋を広げました。

投書を寄せたのは、神戸市内のマンションで、管理組合の理事を務めている自営業の56歳の男性。

寄せられた内容は、次の通りです。

【理解に苦しんでいます】

住んでるマンションの管理組合理事をやってるんですが、先日の住民総会で、小学生の親御さんから提案されました。

「知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、マンション内ではあいさつをしないように決めてください」。

子どもにはどの人がマンションの人かどうか判断できない。

教育上困ります、とも。

すると、年配の方から

「あいさつをしてもあいさつが返ってこないので気分が悪かった。お互いにやめましょう」

と、意見が一致してしまいました。

その告知を出すのですが、世の中変わったな、と理解に苦しんでいます。

この投稿に対するネット上の反応は、

「あいさつできるか否かでトラブル減ると思うんだけど」

「将来的にも困るし、逆に誰が近所の人なのかわからない方が困る」

「挨拶しないことがどう防犯に繋がるのか分からないけど、挨拶しないことによって失うものはたくさんある」

など、大半がこうしたルールを作ることに疑問を投げかけるものでした。

その他に

「単純に寂しい」

「日本も変わってしまったなぁ」

と、投稿者の心情に同調する声も目立ちました。

その一方で、多数派ではないものの、

「近所とかかわりのない生活したい人だっている」

「(マンションは)他人の集合体だからこの警戒も理解はできる」

「これは仕方ない。あいさつを教える機会は親戚づきあいや学校など、ある程度安全な環境で設ければいい」

といった、あいさつを避けたいとする住民の心情に理解を示す声も一定程度の割合で存在しました。

ところで、このする・しないで賛否両論の波紋を広げた「挨拶(あいさつ)」ですが、この言葉はもともと仏教語です。

「挨」は「押す」こと。

「拶」は「せまる」という意味から、挨拶は本来「前にあるものを押しのけて進み出ること」という意味でした。

禅宗では「一挨一拶(いちあいいつさつ)」と言い、師匠が弟子に、または修行僧同士があるいは軽く、あるいは強く、言葉や動作で、その悟りの深浅を試すことがあります。

これを「挨拶」と言うのですが、やがてこれが転じて、現在のようにやさしく応答・返礼、儀礼・親愛の言葉として使われるようになりました。

神戸市内のマンションでは、この親愛の言葉である「挨拶」を禁止する決まりを作るというのですから、ネット上の「単純に寂しい」という言葉に共感を覚えます。

この「挨拶」について、仏教ではどのようにとらえているのでしょうか。

お釈迦さまは、

つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四つのことがらが増大する。

すなわち、寿命と美しさと楽しみと力である。

(『ダンマパダ』より)

と、「礼儀を守り年長者を敬う人は、寿命と美貌、福楽と力が増大する」つまり、幸福な生活を送るようになると説いておられます。

そうすると、子どもの頃から「知らない人に挨拶をされたら逃げるように」と教えるのではなく、まず自分の方から日常の挨拶をきちんとできるように習慣付け、年長者に対しては敬意を払うように教えることが大切なのではないかと思います。

早朝、登校途中の小学生と何度かすれ違ったことがあります。

全く見知らぬ生徒でしたが、顔が会うと笑顔で元気よく「おはようございます」と挨拶してくれました。

私も、笑顔で「おはようございます」と返しました。

ほんの一瞬の出来事でしたが、すれ違った後、心地よい爽快感に満たされました。

けれども、もしその時その生徒が「知らない人だから…」と、顔を背けながら通り過ぎていたら、不快感が残ったかもしれません。

「挨拶」の持つ力を信じしたいと思います。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。