平成29年11月法話『無明 自分の愚かさを知らないこと』(中期)

「無明」とは『仏教語大辞典』によると「無知のこと。われわれの存在の根底にある根本的な無知。

最も根本的な煩悩。迷いの根源。過去世から無限に続いている無知であって、無明を滅ぼすことによって、われわれの苦悩も消滅する」と述べられています。

また、『真宗新辞典』には、この仏教一般の意味に加えて「真宗では本願を疑い、仏智を明らかに信じないことを示す」と、浄土真宗独自の立場が説かれています。

この「無明」について、親鸞聖人は『一念多念文意』に

私たち凡愚は、どうしようもない無知であって、臨終のその時まで完全に無明煩悩に覆われて、一瞬といえども平常心を保つことができず、ただ迷い続けるのみである。

と教えておられます。

ところが、その一方『教行信証』では「南無阿弥陀仏」の称名念仏をたたえて

念仏の行者は、迷いの根源である無明煩悩の一切はすでによく破られて、仏果に至る功徳のすべてがこの行者の身に満ち満ちている。

と、述べておられます。

私たちは、たとえどのような真実信心を得たとしても、この世に生を受けている限り、どこまでも迷いに満ちた凡夫であることに変わりはありません。

そうすると、親鸞聖人の言葉には明らかな矛盾がみられることになります。

『一念多念文意』では「凡夫には死ぬ瞬間まで無明は何一つ消えずに残る」と述べられる一方で、『教行信証』では「念仏を称えているその時に無明は完全に破られている」と明言しておられるからです。

さて、この矛盾とも思える表現をどのように理解すればよいのでしょうか。

『教行信証』は、次のような言葉で始まっています。

煩悩におおわれた愚かな凡夫は、自らの力でいかに努力したとしても、無限に広がる大海原を流転するのみで、絶対にこの暗黒の大海を渡り切ることはできない。

迷いの根源である無明の闇を、その根本から断ち切り、私を光り輝く悟りの世界に至らしめる力は、ただ阿弥陀仏の本願力のみである。

まさに阿弥陀仏の大悲の願船が、この私をして難度海を渡らせてくださるのであり、大悲の光明が、私の無明の闇の一切を破るのである。

この仏教の根本原理、浄土真宗の真理が、いまようやく私の全人格を揺さぶって、私自身に明らかになったのである。

親鸞聖人は、自らの心に開かれた浄土真宗の真理とは、この身がいかに無明の闇に包まれていたとしても、阿弥陀仏の本願力、智慧の光明が無明の一切を破るのであり、現に無明を破っている阿弥陀仏の智慧のすがたが、自身がいま称えている「南無阿弥陀仏」の名号であるのだと明かしておられます。

では、いったい何が親鸞聖人にこのような真理を信知せしめたのでしょうか。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の大悲心である真実の信楽が、私の内より名号と呼応し、自身の無明を根本的に破って真実の証果に至らしめたのだと理解されます。

そうだとすると、浄土真宗という仏道を歩む私たちにとって留意すべきことは、自分自身を覆っている無明を自らの力で取り除こうと努力することではなく、煩悩に縛られている限りどれほど懸命に仏道修行に勤しんだとしても、臨終の瞬間まで自らの力によっては、決して無明を破ることはできないという真理を知ることであり、同時に、だからこそ無限に迷い続けなければならないこの愚かなる凡夫を救うために、阿弥仏の大悲は、現に念仏そのものの中で躍動しているという真理を知ることだと言えます。

このことを『正信偈』には、

釈尊の説かれる阿弥陀仏の大悲の教えを

よく聞信することのできた念仏者の心は

すでに無明の闇は完全に破られている

ただし、智慧の光明が念仏者の無明を

あかあかと照らし輝かせているにもかかわらず

念仏者の心から涌き出る貪愛瞋憎の雲霧は

如来より廻向された真実の信心を

幾重にも覆い被せている

けれどもこの念仏者の心は

常に智慧の光明によって

照らされていることを信知しているから

この心はもはや闇ではない

と、示しておられます。

このことから、真実信心の念仏者の心は、どのように深い無明の闇に覆われていたとしても、すでに阿弥陀仏の智慧の光明によってその無明は破られているのであり、したがって、たとえどのような人生が待ち受けていても、流転輪廻の道は完全に閉ざされ、ただひたすら悟りの仏果への道を真一文字に進んでいくことになるのだと言えます。

これまでみてきたことから、「無明」とは私たち凡夫の迷いの根源であり、ただ阿弥陀仏の智慧の光明によってのみ破られることが明らかになりました。

ただし、凡夫がこの阿弥陀仏の本願の真実を自らの全人格的な場で真に信じるということがなければ、どれほど一心に念仏を称えたとしても、やはり無明はどこまでも残ることになります。

なぜなら、仏の光明によって私自身の無明がすでに破られているにも関わらず、その真実を私が未だ真に知り得ていないのですから、私の心はやはり無明で満たされることになるからです。

最後に、私たちは煩悩を消し去って悟りに至るのではありません。

すべての煩悩を抱えたままで、阿弥陀仏の本願に救われていくのです。

この真理が明らかになる時、私は無明の中にありつつ、しかも私における無明は完全に破られていることになるのです。