明治時代の本願寺による薩摩開教について(前期)江戸時代の真宗禁教とかくれ念仏

ご講師:岡村喜史さん(中央仏教学院講師)

現在、鹿児島県にはお寺が424あります。

そのうち本願寺派を含めた真宗(浄土真宗)の寺院が297あり、約70パーセントを占めています。

真宗にはいくつかの流派があり、鹿児島県下では本願寺派(西本願寺)が169カ寺(全体の約3分の2)、大谷派いわゆる東本願寺が78カ寺、興正派が26カ寺、高田派が4カ寺、佛光寺派が2カ寺などとなっています。

お寺の数でいえば鹿児島県は少ない方で、47都道府県中後ろから4番目です。

一番少ないのは沖縄県、次に宮崎県、高知県、そして鹿児島県です。

ちなみにお寺の数が一番多いのは愛知県で、4819カ寺あり、鹿児島県の11倍以上です。

鹿児島県で浄土真宗と正式に名乗っているのは西本願寺の本願寺派だけで、他の派は真宗と称しています。

呼称は異なっても親鸞聖人(しんらんしょうにん)の開かれたお念仏の教えと理解していただきたいと思います。

この浄土真宗・真宗の割合が全国的にみてみると鹿児島県の70パーセントというのは、富山県についで全国で2番目に高い比率です。

それだけ皆さんが浄土真宗と関わりの深い生活を続けてこられたということだと思います。

ただ鹿児島県で浄土真宗が認められたのは明治時代に入ってからですので、わずか140年の間に一気に県下全域に広まり、受け入れられていったといえます。

浄土真宗は、今から500数十年程前の室町時代に、8代目の蓮如上人(れんにょしょうにん)という方が熱心に布教活動を行い、全国に広まりました。

どういう身分の者でも念仏を称えれば誰もが阿弥陀如来に救われるという教えで、誰もが平等で同朋であるという考え方でした。

そのような考え方を背景にしていましたので、どうしても支配者との対立が起きました。

浄土真宗は一向宗(いっこうしゅう)とも呼ばれ、考え方の違いから支配者と対立し、しばしば一揆(一向一揆)が起こりました。

支配者層や戦国大名たちにとっては領国の支配管理に支障をきたすということで、多くが禁教の措置をとります。

薩摩藩島津氏も同様でした。

後に、越前の朝倉氏や小田原の北条氏、越後の上杉氏などは禁教を解除しますが、島津氏だけは継承し、江戸時代に入ってからも薩摩藩では浄土真宗の禁教令を発令し、浄土真宗の信者や門徒がいないかどうか取り締まるなどの政策が継続されました。

しかし、それ以前に浄土真宗は人々に受け入れられていたので、支配者側が禁止しても隠れて信仰する人々がいました。

『かくれ念仏』というかたちで浄土真宗の念仏を信仰することが密かに行われていました。

『かくれ念仏』については今でも洞窟などの遺跡が残っています。

浄土真宗の教えを守っていきたいという気持ちが強かったため、『煙草(たばこ)講』などの『講』を通じて信仰を継続し、その強い信仰は特に京都の本山と密かにつながっていて、本山のほうでも非常に尊重していました。