明治時代の本願寺による薩摩開教について(中期)明治維新後の宗教政策・西南戦争の影響

明治時代になると、江戸幕府の政策を一方では否定し、一方では継承します。

宗教的なことでは江戸時代にはキリスト教を禁止する名目のもと幕府によってお寺や仏教が保護されていました。

全国の人々はお寺の檀家になることを義務付けられ、宗門改や寺送状の発行などお寺の檀家であることを証明してもらう施策が進められました。

ところが明治に入ると、その政策が大きく転換されます。

明治政府は神道を国の宗教にするという神道国教化政策を打ち出しました。

すると薩摩藩はそれまでの寺請(てらうけ)制度を改めて、神道請(しんとううけ)あるいは神社請という制度を導入し、そして1066あったお寺をすべて廃寺にしました。

明治2年には薩摩藩からお寺がなくなりました。

その後、明治4年には廃藩置県が行われ、中央政府が主導して県の整備をしていく仕組みとなります。

今の県知事に相当する県令を任命しました。

通常は旧来の影響力をなくすために地元の人を県令にすることは基本的になかったのですが、鹿児島県については島津氏の影響が強く、大山綱良(つなよし)という地元の人を県令に任命しました。

この人は薩摩藩士でしたので、旧態の薩摩藩の政策を鹿児島県になっても継承しました。

明治9年1月、明治政府は信教の自由という法令を施行します。

キリスト教の禁止も含めて解除するもので、全国どこでもどういう信仰を持ってもいいという内容のものですが、鹿児島県では、この発令以降も県令の意向により真宗が警戒されました。

状況が大きく変わるのが明治9年8月です。

廃藩置県のあと県の統廃合が進められ、宮崎県を鹿児島県に併合しますが、宮崎県ではすでに真宗が解禁されていたために、統一した政策が実施できないという弊害が発生しました。

そこで明治政府が鹿児島県に対し真宗解禁を命令します。

明治9年9月5日、正式に旧薩摩藩を含む鹿児島県で真宗が解禁されました。