宗派によって念珠の持ち方は大きく異なります。
浄土真宗のお念珠(門徒さんがお使いになられる単念珠)を持つときは、房を垂らすようにして左手に持ちます。
合掌する時は念珠を両手にかけ、親指で軽く押さえ親玉を下にし、房を自然と垂らして持ちます。
浄土宗は、「仏事Q&A浄土宗 浄土宗総合研究所」によれば、合掌の時は、両手の親指に二つの輪を重ねて掛け、房を手前へ垂らす。
お念仏を称えるときは左手にかけた念珠の珠を一つとなえるごとにずらしてゆき念仏の数を数えるとあります。
日蓮宗では、「仏事Q&A日蓮宗 日蓮宗現代宗教研究所」によれば、お題目を唱えるときは環の途中でひとひねりして、両手の中指にかけて合掌するとあります。
真言宗では、「知っておきたい真言宗 監修 松長有慶」によれば左右の中指に念珠を通し、手のひらで包むように合掌しながら、お勤めの最初と最後では軽く擦って音を出すとあります。
このように宗派によって念珠の持ち方は大きく異なるのですが、なぜ違うか、なぜそのような持ち方をするのかについては簡単にはわかりませんでした。
お念珠からは少し話が逸れますが、浄土真宗における念仏について私が頂いている所を少し書かせていただきたいと思います。
浄土真宗ではお念珠を手にかけて、声に出して「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えます。
浄土真宗をおひらきになった親鸞聖人はこの南無阿弥陀仏のお念仏について他宗にはない独特の味わい方をされました。
他宗の中には、念仏という行を積み上げることによって煩悩を消し、仏の位に近づいてゆくという考えがあります。
そもそもお念珠は、数珠とも呼ばれるように、念仏や真言を何回となえたかを数える道具でもあります。
お念珠の玉の数は108を基準として、半分、4分の1、2分の1などのものがあります。
この108という数字は、煩悩(私を煩わせ悩ませる心の動き・迷いの原因)が108つあることからきていると言われています。
また108の半分である54という数字が仏に上っていく階位を表しているともいわれております。
親鸞聖人は、お念仏を“仏の位に至るために積み上げてゆく行”とは受け止められませんでした。
「南無阿弥陀仏」の六字は阿弥陀様の「あなたを救う仏はもうここにいるよ。」というお呼び声であると、味わわれました。
私たちをお救い下さる仏様を阿弥陀仏と申します。
その阿弥陀様は遥か昔、法蔵菩薩という修行中の位の時に、生きとし生きるすべてのものを救うために計り知れないご苦労くださり仏に成られた方であります。
そして阿弥陀様は今「あなたを救う仏は、もうここにいるよ。
私に任せなさい。」と私たち一人一人を呼び続けてくださっています。
その訴えが南無阿弥陀仏でありまして、文字にすれば六文字の名号となり、姿で表せばお仏像となり、口からこぼれるものが念仏であります。
つまりは私の口に称えるお念仏であるけれども、源を辿ってゆけば、私の力で称えているのではない。
阿弥陀様のはたらきがそうさせているのだと味わわれたのでありました。
浄土真宗のお念仏は、「あなたを救う仏はここにいるよ」と阿弥陀様が私に届いてくださっている証拠。
そして私が命終わったならば間違いなく阿弥陀様によって浄土へゆき仏にならせていただく証拠でありまして、決して仏の位に至るために積み上げてゆく私たちの行ではありません。
真宗門徒にとって念仏を称え、それを聞くことは慶びなのであります。
話しをお念珠の事に戻しますと、そのようなことから、浄土真宗のお念珠は、煩悩を断ずるためでなく、仏の位に近づいてゆくための道具でもありません。
念仏の数を数える道具ではないのです。
阿弥陀様を礼拝させていただくときの大切な法具、いわば大切なマナーといえます。
仏様に礼拝する時はお念珠を手にかけましょう。
本願寺8代目の御門主であります蓮如上人は御文章2帖目第5通に「珠数の一連をももつひとなし。さるほどに仏をばてづかみにこそせられたり」と念珠をかけず礼拝するのは仏様を素手でつかむようなものだと戒めていらっしゃいます。
なお、お念珠は大切な法具でありますから、携帯する時はカバンなどに直に入れることは避け、念珠袋を使いましょう。
置くときも畳などに直接置くことは避け、念珠袋など何か下に敷いてからその上に置くようにしましょう。
合掌