さつまの真宗禁教史 12月(前期)

三十四回

真宗禁制と本願寺(その三)

③使僧の派遣

前稿に見てきましたように、本願寺は薩摩門徒に特別な配慮をもって接しました。

そして本願寺は人命にもかかわる僧侶(使僧)を薩摩国に派遣して布教や募財にあたらせました。

幕末期の本願寺教団では、宗名論争・興正寺との本末争論・三業惑乱・御影堂修復などの事件や案件によってその負債は六十万両ともいわれ、従来の自由意志による本願寺への進納金(三季冥加金)制度を変更してなかば義務化するなど、いわゆる天保の財政改革を断行しました。

この時、本願寺は真宗禁教下の鹿児島にも法義引立(布教)

と懇志上納を促進するために使僧を派遣したのでした。

幕末期に派遣された使僧には次の僧侶が明らかになっています。

静遊寺(在所不詳)・光名寺(肥後国芦北郡津奈木)・浄泉寺(筑前国早良郡樋井川大字片江町)・蓮教寺(所在不詳)・直純寺(宮崎市)・妙光寺(所在不詳)・蓮舟寺(所在不詳)・常念寺(所在不詳)・安楽寺(所在不詳)・真徳寺(安芸国)

この中で僧侶の犠牲者(殉教僧侶)がでました。

安芸国(広島県)真徳寺無崖です。

次にこの無崖の動静をみておきましょう。

無崖は広島県高田郡向原町真徳寺貫丈の次男。

安政元年(1854)9月下旬、薩摩に入国して、薩州平川椎茸講・須木椎茸講・同仏飯・同焼香・同煙草講・菱刈椎茸講・大口椎茸講・華堂院二十五日講・川西十六日講・川東十六日講・同十四日講・御文庫などの北薩摩地方(鹿児島県北部)の諸講を巡回して布教しました。

ところが、安政4年(1857)、隣国の某真宗寺院の密告によって役人の知るところとなり日向国本庄(宮崎県東諸県郡国富町)の宗久寺に逃亡しました。

しかし、薩摩の役人は執拗に同寺を包囲しましたので、ついに同閏五月五日、無崖は宗久寺で縊死してしまいました。

時に三十三歳でした。

無崖の墓は宮崎県北諸県郡山田正定寺の境内

にあります。