平成30年1月法話 『やさしさを顏にも言葉にも』(中期)

よく知られている仏教語に「和顔愛語」があります。

この言葉が広く知られるようになったのは、書籍や映画・ゲームを通して有名な『三国志』に登場する三国(魏・呉・蜀)の中の一つ、「魏」の国の康僧鎧(こうそうがい)訳と伝えられる『仏説無量寿経』が広く流布したことによります。

この経典の中に
 嘘やへつらいの心がなく、「和顔愛語」し、相手の心を先んじて知り、それに応える
という、阿弥陀如来の前身である法藏菩薩のありようを明らかにする一説があり、そこにこの言葉はあります。

「和顔」とは「和やかで穏やかな顔つき」、「愛語」とは「慈愛のこもった言葉」という意味です。

なお、「愛語」はもともと「語り」自体のはたらきに重点が置かれ、「相手が聞いて嬉しくなるような、耳に心地よい言葉とその語り口」を意味していました。

そうすると『仏説無量寿経』の「和顔愛語」とは、「和やかで穏やかな顔つきで、柔らかなものいいをすること」だと、理解することができます。

また、この「和顔愛語」は、『雑宝蔵教』という経典の中にも見られます。

その中で説かれている、お金や品ものを使わなくてもできる七つの施しの中に、「和顔施」と「言辞(愛語)施」があり、この二つを一つにして「和顔愛語」とよんでいます。

和やかで穏やかな顔つきで接する人に対しては、自分も笑顔で応えたくなりますし、柔らかなものいいをされるとその語りかけは耳に心地よく響くものです。

しかもそれを行う側は、自らがそのことを心がけるだけでよく、お金や物を必要としないので、誰でも実践することができます。

この布施行が「無財の施し」と言われるゆえんです。

したがって、私たちは日々の生活の中で、「和顔愛語」を常に心がけるようにしたいものです。

ただし、実際問題として考えた場合、果たして「誰に対してもそれができるか」と問われると、正直なかなか難しい面があります。

例えば、敵対しているような人にとってそれは「面従腹背」(表面は服従するように見せかけ内心では反抗していること)あるいは「慇懃無礼」(ていねいな態度だが,実は見くだしていること)とも受け取られかねません。

だからといって、自分にとって都合の良い人だけに対して「和顔愛語」で接するというのもいささか考えものです。

そこで、親鸞聖人が持っておられた「善」の基準である「慚愧(ざんぎ)」についての理解を通して、このことを考えてみたいと思います。

「慚」というのは、自らが悪いことをしないということ。

「愧」というのは、他人に悪をなさしめないということです。

自らが悪いことをしないという心を持つことだけでも大変なことですが、それがそのまま他人にも悪いことをさせないという心に転じていかなければならないというのが、「慚愧」という言葉の意味です。

この「他人にも悪いことをさせない」というのは、力でねじ伏せたり抑えつけたりするということではなく、私が他人と関わる時、その人に悪心を起こさせないようにする、常に悪をなさないような雰囲気で接するということです。

したがって、もし他人に不愉快な思いをさせたり、腹立たしい心を起こさせたりした場合、それは他人に悪をなさしめているということになってしまいます。

そうすると、自らが悪いことをしないということだけでも大変なのですが、それに加えて他人にも悪をなさしめないという心を加えると、実践は極めて難しいと言わざるを得ません。

そして、もし「慙愧の心がある者を人間だ」と規定すると、自分はとても真の人間とは言い得ないという自覚が生まれてくることになります。

このような意味で、自分には「慚」という心もなければ「愧」という心もないのだという、自身への深い恥じらいを自覚させる言葉が「慙愧」なのだと言えます。

ところで、お念仏の教えを喜ばれる方から、よく「お恥ずかしい」という言葉が聞かれたりします。

それが、自らの謙虚さを示す言葉になると理解されている面があるように窺われるのですが、親鸞聖人が語られる「慚愧」の心は、一般的に言われているそのような「おはずかしい」とは全く性格を異にする心です。

親鸞聖人は、しばしば自身には「善」がないとか「行」をなしえないと言われます。

けれども、これは単なる日常生活における瑣末な事柄を問題にされた言葉ではありません。

聖人は、日常生活においては、一心に善行に努めて倫理的な生活を遵守しておられました。

したがって、親鸞聖人にとって倫理的な次元での善や行については、特に問題ではなかったのです。

親鸞聖人が重視される「慚愧」の心とは、仏教的な真実に出遇うことによって、初めて自らの心に生じた深い内省の心です。

慚愧の心を持つことによって、私たちは今までの善や行だと思っていたことが、すべて煩悩をまじえた不実の善であり行でしかなかったことに気付かされることになるのです。

そうすると、「和顔愛語」も、「実践した」という自己満足の余韻に浸るのではなく、自分は念仏の教えに出遇い、今その教えに導かれているのだという喜びの中で、相手の心に寄り添いながら行うよう心がけることが大切なのではないかと思います。