平成30年3月法話 『花びらごとにその色の光かがやく』(中期)

花は四季折々ごとに美しく咲き、その花の色によって季節に彩りを添えてくれます。

特にこの時期は、日本を代表する花である桜が咲くと、春の訪れを待ちわびた人々の心に華やぎを与えてくれます。

ただし、この時期は天候が不安定だったりすることもあり、「満開になったら花見に行こう」と思っていたのに、雨や風によってあっけなく花が散ってしまうこともあるので、桜の開花を喜ぶ一方、天候の変化の良し悪しに一喜一憂してしまったりもします。

けれども、それは今に始まったことではなく、『古今和歌集』には

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

という有名な歌があります。

これは現代語訳をすると「この世の中に、桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに」となります。

作者は在原業平で、春の季節には桜があるために人々の心が穏やかでないことを述べて、人の心を騒ぎ立てる力のある桜の素晴らしさを伝えようとしています。

業平の詠んだ桜の威力は現代でも健在で、西日本から東日本へと桜が開花していく様は「桜前線」という呼称で親しまれ、開花を待ちわびる人々の心を毎年穏やかならしめないでいます。

ところで、この桜は春を象徴する花としてよく描かれているのですが、実は花びらの一枚一枚が丁寧に描かれている作品はあまりないのだそうです。

試しに桜の花びらを何も見ないで描こうとすると、案外上手く描けないということに気がつきます。

そこで、改めて桜について調べてみると、ひとことで「桜」といってもいろんな種類があり、花びらにもいろいろな形のあることが分かりました。

毎年、春には桜の開花を待ちわびていることもりあり、桜のことはよく分かっているように思っていたのですが、きちんと見ないままに「桜ってこんなものだ」と、分かったつもりになっていたということに、改めて気付かされたことでした。

さて、一般に私たちは知識のないこと、言い換えると何もものを知らないことが「愚か」ということだと思っています。

けれども、チェコスロバキアの作家ミラン・グンデラさんは

人びとの愚かしさというものは、あるゆるものについて答えを持っていることからくるのだと自分は思う。あらゆるものについて自分は答えを持っていると考えていることによって、愚かしさというものが生まれるのではないか。

と述べておられます。

そして、あらゆるものに対して答えを持っていると考えていることによって

世界中の人びとが、いまや理解するよりは判定することを望み、問うことより答えることを大切だとする

ように感じられる。

と指摘しておられます。

確かに、私たちは世の中の様々なことについて、その本質を理解しようとすることよりも、正しいか間違っているか、有益かつまらないかなどと、あらゆるものに対して「判定」することを第一に考えているふしがあります。

仏教では私たちの愚かさを「無明」という言葉で言い表します。

「無明」というのは「真実を知らない」ということなのですが、真実を知らないということは、ただ知らないという姿がそこにあるのではなく、実は「知らないのに知っているつもりでいる」という、二重の思い込みが根底にあるのです。

そこで、仏法を聞き、真実に出会った人は、自分がいかに真実を知らないかということを深く自覚することになるのですが、その一方、仏法を聞くこともなく真実にふれることがない人は、何でも分かったつもりになって、自らを問うこともなく、迷いのままに流転していくことになります。

日常生活においても、ともすれば私たちは周囲の人々に対して、一人ひとりときちんと向き合うこともないままに、自分の身勝手な思いだけで、「この人はこんな人だ」「あの人はあんな人だ」と、無意識のうちにレッテルを貼り付けて、その人のことを分かったつもりになってしまっていることがあります。

時には、直接会ったこともないのに、断片的な情報だけでその人のことを決めつけてしまうこともあったりします。

けれども、花びらごとにその色の光が輝くように、誰もがその人なりに自分を輝かせて生きているのです。

もちろん、あなたもその一人です。

だから、その人の本当の姿に出会っていないのに、自分勝手にレッテルを貼って分かったつもになってはいないか、考えてみたいものです。

そういう在り方に心を寄せることができれば、また周囲の人々との関係性も豊かなものになっていくのではないでしょうか。