「落語の世界とその弟子たち」(上旬)小屋の中で話を

ご講師:桂 文枝さん(落語家)

落語が始まったのは、室町時代の末期でございます。

室町時代の末期に御伽衆(おとぎのしゅう)というのがおられたんです。

武将が戦争に行って帰ってきます。

その間に、人の道やとか世情を武士に話して聞かす、これが御伽衆というものやったんです。

織田信長には野間藤六(のまとうろく)、豊臣秀吉には曾呂利新左衛門(そろりしんざえもん)という人が御伽衆として仕えておられた。

そして、寛永年間に安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)という御伽衆がいらっしゃいました。

この人は、京都の寺町の誓願寺という浄土宗のお寺の法主さんやったんです。

この安楽庵策伝と言う方は、『醒睡笑』という笑いのもとになります本を八巻出されたんです。

これはどのような本かといいますと、例えば「ハトが何かかけていきよったで。フーン」とか、「裏に囲いができたで。へー」とか、こういう話を綴りまして、これを八巻ほど作らはったんです。

この本がおもしろいというので買われる方もずいぶんとおられたんですが、当然その中にいっぺんやってみたいなあという人が生まれてくるわけです。

そこで、東京には鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)、大阪には米沢彦八(よねざわひこはち)、京都には露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)が出てきました。

こういう方はどういうところで話をしたかというと、鹿野武左衛門は浅草の観音さんの境内、米沢彦八は大阪の生玉(いくたま)神社の境内、また露の五郎兵衛は京都の賀茂の河原とか北野天満宮の境内で話をしていました。

これが噺家の始まりでございます。

それから後に、大阪に桂文治(かつらぶんぢ)、東京では三生亭花楽(さんしょうていからく)という方が誕生しまして、この人らが寄席(よせ)というものを作って、小屋の中で話をするようになったんです。

この頃から噺家と言っていたのが落語家と名前が変わってきたわけです。

大阪の桂文治という方は、三代目まで大阪で活躍されました。

ところが四代目から東京に移るわけです。

なぜかといいますと、三代目の文治が亡くなりまして、四代目の文治ができるときに、三代目の文治の娘さんが東京の噺家さんのところへ嫁ぎまして、「うちのお父さんの名前やさかい、あんた継いだらどうや」ということで、東京にも文治という名前ができたんです。

それから文治と言う名前は東京のほうへ移ってしまうわけでございます。

今でも東京には文治という方がおられます。

その後に、大阪にも私の初代の師匠にあたりますが、桂文枝という方が出てこられました。

この方は文治という人のお弟子さんでありましたが、文治という名前がなくなりましてから、関西で桂派の元としてがんばってこられた方でございます