「落語の世界とその弟子たち」(中旬)弟子のがんばり

この初代文枝には、桂文都(ぶんと)、桂文三(ぶんざ)、桂文之助(ぶんのすけ)、桂文團治(ぶんだんじ)という四天王と呼ばれた有名なお弟子さんがおられました。

初代文枝が亡くなりましたときに、二代目の文枝を誰に継がそうかということになりまして、それやったら文三がええなあということになって、文三が二代目を継いだんです。

ところが一番創業弟子が桂文都だったんです。

この文都は、自分が文枝を継ぐんだと思い込んでいたもんですから怒りましてね。

「それなら私は名前を返す」ということで、桂という名前を返して月亭文都(つきていぶんと)という名前で活躍しはったんです。

なぜそういう名前にしたかといいますと、「私は文枝が継ぎたかったんや。継ぎてえ、継ぎてえ」というので月亭文都という名前にしたという逸話がございます。

その頃は、こつこつと精をだしながらがんばってきた時代でありました。

今は噺家の数もものすごく増えてきました。

私らの時代は、噺家の数がなかなか集まらなかった。

そこで私らが目標としたのは、とにかく噺家を五十人に増やそうと。

結局五十人にならなかったんですが、昭和四十七年頃に初めて五十人近い噺家が誕生してきたわけです。

それはテレビとかラジオとか、落研といって大学の落語研究会で勉強していた連中がプロへ転向してきたからです。

今現在、私の弟子といいますと、直系が二十人いてます。

そして一門四十三人いるわけですが、一番創業弟子が桂三枝でございます。

その次にきん枝というのがいてます。

その次が桂文珍です。

二十人みんな、それぞれ活躍しております。

弟子のがんばりというものは、非常にうれしいもんでございます。

でも、やはり弟子の中には、気の利く弟子、気の利かん弟子がいましてね。

気の利く弟子の中にはこういう弟子がいました。

あるとき雑誌社が来まして、グラビアに出すから一門の写真を撮らしてくださいと言ってきたんです。

そこで写真を撮ったんですが、いつも私の横手に座る弟子が、その日にかぎって一番端に座りよった。

私は帰りました後、「おい、お前いつもわしの横手に座るやないか。今日にかぎってなんで端に座ったんや」と聞いたんです。

「師匠考えてみなはれ。グラビアいうたら、まん中はページとページの間でっせ。そしたら端に座ったほうがよう写りますやんか」。

こういうこと考えよるんですわ。

私はそのとき「弟子に教えられたなあ」と思いました。

気が利かん弟子というのは、あるとき、夏場でありますが、私が留守のときお客さんが来はりまして、本人は気を利かしたつもりなんでしょう、コーラを出したんです。

ところがお客さん、それに口を付けずに帰ってしもうた。

弟子は「なんで飲みはらへんかったんかなあ」と思うて自分で口付けて飲んだら、ソーメンのだしやったと。