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「ソチオリンピック」

先月開催されたソチオリンピックは、夜遅くまで応援して寝不足になった方もおられたかと思います。

4年に1度のこのオリンピックのために、選手の方々は様々な思いで参加されたことと思います。

メダルを取れた人もいれば、残念ながらメダルに届かなかった人もいます。

しかしながら、メダルを獲得した・しなかったに関わらず、一生懸命に競技するその姿に、ただただ感動をおぼえたことです。

羽生選手、葛西選手、浅田選手等々、皆さまの中にも印象に残った選手がいたことと思います。

私はその中でも、モーグルの上村愛子さんのことが大変印象に残りました。

彼女は今回が5回目の挑戦であったようです。

最初が7位、2回目が6位、3回目が5位、4回目が4位でした。

4回目に4位になったときに言った「何でこんなに一段一段なんだろう」という言葉が、映像とともに鮮明に記憶に残っていました。

あれから4年が経ち、5回目のオリンピックを迎え、結果としては4位でした。

しかし、彼女は

「メダルにはあと一歩届かず、皆さんにメダルを持ち帰る事が出来ないのは残念で仕方ありませんが、オリンピックという最高の舞台の決勝戦で何度も何度も最高の滑りができた事、魔法がかかったみたいだと思っています。そして、本当に清々しい気持ちで一杯です」

とブログにコメントしています。

いままでやってきた練習の成果を全て出し切れたという思いがあるからこそ、悔しいという言葉ではなく、清々しいという言葉が自然に出てきたのだと思います。

また、これまで支えてくれた多くの方々に感謝の気持ちを表しておられました。

本人の努力はもちろんのこと、その周りでいろいろな方々が支えてくれていたからこそ頑張ってこられたのだなあと改めて思うことです。

ブログの後半にこう綴っています。

「オリンピックは苦しい事も悔しいことも悲しいことも悩みを与えられる場所でもあったけれど、壁を乗り越えようと前進する力や、その先にある達成感、そして皆と心が一つに繋がれる奇跡をも与えてくれる場所でした」

と言っています。

勝負である以上は、結果はもちろん大切なことです。

しかし、そこに至るまでに様々な努力や苦労を積み重ねてきた過程が,結果以上に大切なことではないだろうかとしみじみと感じたことです。

翻って、私自身の人生、これから長いものになるか、短いものになるかはわかりませんが、長い短いということだけにとらわれることなく、おかげさまでの心を忘れず、一日いちにちをもっと大切に受け止め、いのち終えていくそのとき、生まれてきてよかった・素晴らしい人生であった・もうやり残したことはないといえるような歩みを進めたいものです。

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「そのまま来いよのお喚び声」(下旬)親さまからのお喚び声が「南無阿弥陀仏」

私の孫は、現在3歳と8カ月くらいになりますが、両親のことを母ちゃん父ちゃんと呼び始めた時から、親を絶対に間違えたりはしません。

一方で、真宗のご門徒の方でも、ご自宅のお仏壇な参ってみると、般若心経のお経があったり、観音菩薩像があったりすることがあります。

何が言いたいかというと、阿弥陀さまは私たちみんなの親さまなのに、どなたが親なのか迷うておる人が多いんじゃないかということです。

南無阿弥陀仏と親を呼んだらもう親を間違うことはないです。

苦しいときも南無阿弥陀仏。

悲しいときも南無阿弥陀仏。

わかってくださる親があったな。

嬉しいときも南無阿弥陀仏。

ともに喜んで下さるまことの親があったなと、まことの親に励まされながら育てられながら、ひとときの人生を「おかげさまでございます」と、強く明るく歩ませていただく。

そういう我が身にならせていただくことが大事なんです。

「恋しくば、南無阿弥陀仏を称うべし。我も六字のうちにこそ住め」

という言葉があります。

先立たれた方がたも、南無阿弥陀仏の六字のうちにはたらいていて下さっておいでです。

苦しいときがあったら南無阿弥陀仏。

「じいちゃんが頑張れっておっしゃっとるな。頑張らせてもらいましょう」

嬉しいときも南無阿弥陀仏。

「みんな喜んで下さっとるな」

と、お念仏の中に思いを深めさせていただきながら、この人生をおかげさまと生かさせていただきましょう。

真宗のご門徒の中には「成仏するつもり」でいる人もいますが、“つもり”じゃ絶対に成れませんよ。

真言宗にしても禅宗にしても法華宗にしても真宗にしても、本来ならば善根功徳・修行を積まないと仏に成れないんです。

ご開山親鸞聖人は、善根功徳は「積めない」と歎かれました。

だからこそ、善根功徳は阿弥陀仏の方から成就して下さったんです。

そして、「そのまま来いよ」喚んで下さっておいでです。

その親さまからのお喚び声が、南無阿弥陀仏の六字のお名号なんですね。

♪捨てた諸仏がおるゆえに

助ける親がここにおるぞよ

来られん所へ来いと言うがではないぞ

行かれん所へ行けと言うがではないぞ

来いよの御意は五劫思惟の阿弥陀さま

行けよの御意は娑婆往来八千土の釈迦如来

来いよの御意も先手なら

行けよの御意も先手

先手と先手の板挟み

後手に回った我々は

ごてごて思案をさらりと捨てて

かかる機までもこのままが

往生させてくださるとは

何と有り難いことよ

もったいないことよぞと

仰ぎあげては南無阿弥陀仏

いただきあげては南無阿弥陀仏

「そのまま来いよのお喚び声」(中旬)聴聞とは「お念仏のおいわれ」を聞くこと

お念仏は聞かなかったらわかりません。

だから仏法はただ「聴聞」に極まる世界なんです。

聴聞の「聴」というのは、こちらからその音の方に意識を向けて聴くことをいいます。

「聞」というのは聞こえてくるということです。

聴こうと意識していなかったら、なかなか聴こえてこないものです。

だから聴聞というのは、難しいものなんです。

仏法聴聞のためにお寺に参るのも、だいたい邪魔が入るんですよ。

例えばこんな話しがあります。

ある奥さんが、今日はお寺参りしようと思って一生懸命支度をしよりました。

すると電話がかかってきて、

「奥さん、今日の広告見たか。なんとあそこのスーパー、今日は肉が200円も安いんですよ、一緒に買いに行きましょうや」

と言うんです。

それで奥さんが「お寺参りしようと思うとる」と断わろうとすると、

「そんなお寺なんかに参りなさんなや。参ったところで1円の得にもならしませんよ。肉の方が200円も安いですよ。一緒に行きましょうや」

と言う訳です。

こういう邪魔が入ると、参ろうと思っていても、なかなか参らせてもらえんのですよ。

ましてや、今度のご講師は若い人じゃろうか、年寄りじゃろうか。

こんな格好では恥ずかしいとか、昨日と同じ服を着ていって笑われたらいかんといって、服を一生懸命選んだりしていたら、お参りなんてできません。

♪一で嫌がるお寺参り

二で二の足踏みたがる

三で誘われ義理参り

四つようやく参ってみれば

五ついつもの癖が出て

六つ無性に眠たがる

七つ何にも聞かずして

八つやかましく起こされて

九つこれはと驚いて

十でとぼけた顔をする

言うてね、参らしてもらおう、聞かしてもらおうと、自分自身に力を入れなかったら、なかなか参れんのです。

善太郎という昔のお同行のことをお話ししましょう。

善太郎さんが畑で一生懸命野良仕事をしよりましたら、お寺の鐘がカンカンカンと鳴りました。

そうしたら善太郎さん、

「参れとおっしゃるんですか。

参らしてもらいましょう。

来いとおっしゃるんですか。

行かしてもらいましょう。

参らしてもらいましょう」

と言うて、着の身着のままでお寺に行かれたんです。

♪鐘が鳴る鳴る法座の鐘が。

早う来いよとせき立てられて

野良着きたままお寺へ参る

鍬を担いだ善太郎

というふうに歌われております。

要するに、お寺参りするのに格好などいちいち気にしていては、参る機会をなくしてしまうということです。

聴聞というのは、「お念仏のおいわれ」を聞かしてもらうことです。

例えば、頭痛薬を飲めば、薬が“効いて”頭痛が治まるのと同じように、如来さまの本願、念仏のおいわれを“聞いた”ならば、疑いが晴れて、親の一仏のご恩に気付いて、朝に礼拝、夕べには感謝というまことの暮らしがそこに生まれてくるんですね。

「喪中欠礼」

近年は「いつも会っている人にはメールで済ませる」という人もいたりして、年賀状の枚数を減らす人もいたりするようですが、ご無沙汰している人とは年に一度の近況をやりとりの機会になったりするので、まだまだ「お正月に年賀状は欠かせないもの」という気がします。

年末に「喪中欠礼」の葉書を頂くことがあります。

一般には、その相手には年賀状を出すことを控えたりされるようですが、私は「自分は喪中なので、新年は年賀状での挨拶は控えます」という予告状だと理解して、「喪中欠礼」を頂いた方にも例年通り年賀状を出しています。

それは「喪中欠礼を頂いたからといって何も出さないのは、むしろ失礼だ」と考えているからです。

そういえば「喪中欠礼」を出した人の中には「近親者を亡くした上に年賀状が激減して、いっそう寂しいお正月だった」ということもあったりするようです。

服喪中の方に年賀状を出すのがはばかられるという場合は、「寒中見舞」を出すという方法もあります。

「寒中見舞」は、松の内(1月7日)が明けてから立春までに出すもので、使い方は次のように幅広くあります。

  1. 喪中の方に、年賀状の代わりに出す挨拶状として使う
  2. 喪中と知らずに年賀状を出してしまった相手に、お詫びの手紙として使う
  3. 喪中と知らずに年賀状を下さった相手に、お返事(返信)として使う
  4. 年賀状を出すのが遅くなってしまい、松の内を過ぎてしまった時に使う
  5. 年賀状を頂いた相手へのお返事が遅くなってしまい、松の内を過ぎてしまった時に使う
  6. 年賀状を投函したあとで、年末ギリギリにお歳暮を頂いた時のお礼状を出す時に使う
  7. 寒中見舞いのお返事・返信

ところで「喪中」と「忌中」とは、どう違うのでしょうか。

既に昭和22年に廃止されているのですが、明治7年に出された太政官布告では、忌(忌中)と服(喪中)の期間がこと細かく定められています。

例えば、

父母の場合「忌日数50日・服喪日数13カ月」、

夫は「忌日数50日・服喪日数13カ月」、

妻は「忌日数20日・服喪日数90日」、

祖父母(父方)は「忌日数30日・服喪日数150日」

(母方)は「忌日数30日・服喪日数90日」、

おじ・おばは「忌日数20日・服喪日数90日」

などと定められていました。

このように「忌」と「服(喪)」は謹慎度の深さによって分けられていますが、「忌」は自宅に謹慎する期間、「服(喪)」は喪服を着用する期間と考えてよいようです。

現在でも、慣例としてはこの太政官布告が一つの目安にされていて、父母の死亡に際しては「満中陰(四十九日)」までが「忌中」、「一周忌(一年間)」までが「喪中」とされることが多いようです。

では、改めて「忌」とは何か、「服(喪)」とは何なのでしょうか。

「忌」とは「死を畏れ忌みはばかる」ということで、

「死のけがれのある間は派手なことを控えて身を慎み、死を悼み、御霊をなごめるために避けられない期間。最長50日」

といわれています。

また「服(喪)」とは

「忌中が明けることを“忌明け”といいます。忌が明けたら神棚の白い紙をはがし、普段の神棚への拝礼や神社のお参りなど、忌中には控えていたことができるようになり、日常の生活ができるようになります」

と説明されています。

このことから、いずれも神道の考え方に基づくものであることが知られます。

したがって、太政官布告も既に廃止されていることもあり、死を「遺教」と頂き、「けがれ」とはとらえない仏教徒にとっては、特に気にする必要のない慣習であるように思われます。

また、神道の方でも、忌中の場合は控えるものの忌明け以後であれば「年賀状を出しても差し支えない」としているようです。

今年は、元旦以降に届いた年賀状の中に見知らぬ人の名前がありました。

それは、大学の同窓生の息子さんからのもので「先日、父がお浄土に往生しました」と記載されていました。

彼とは、卒業以来一度も会う機会はなかったのですが、これまで、結婚しました・子どもが生まれました・住職を継ぎましたなど、年に一度のやり取りの中で近況を伝えあっていました。

日頃は、なかなか思い出すことのない相手であっても、元旦に年賀状を見ると、その度に大学時代の記憶が新たに蘇ってきたりしていました。

ですから、こうして年に一度年賀状を交わすことによってお互いの絆を確かめ合っていると、もし数十年ぶりに会ったとしても普通に話ができるような気がしていました。

実は、仕事の関係で、今年その同窓生の住む街に行く機会があったので、「大学時代以来の旧交をあたためよう」と考えていただけに、急逝を驚き悼むと共に再会の機会を逸したことをとても残念に思ったことでした。

「喪中欠礼」をもらったからといって、何も出さないでいると、相手にとってはまる2年「音信不通」になることさえあります。

今回の訃報を通して、なかなか会えない県外に住む人には、

「年賀状だけではなく暑中見舞いも加えて、年2回くらいのやりとりをした方が良いかな…」

と思ったお正月でした。

親鸞・去来篇1月(10)

その日の範宴の講義は、あくまで範宴自身の苦悩から生れた独自の新解釈の信念に基づいたものであって、従来の型にばかり囚(とら)われた仏法のための仏法であったり、学問のための学問であったりするものとは、大いに趣(おもむき)が変っていた。

従って、今までの碩学(せきがく)や大徳の説いた教えに養われてきた人々には、耳馴れない範宴の講義が、いちいち異端者の声のように聞えてならなかったし、新しい学説を取って、若い範宴の衒学(げんがく)だと思う者が多かった。

「ふふん……」

という態度なのである。

中には明らかに反感を示して、

「若いものが、すこし遊学でもしてくると、あれだから困るのじゃよ」

と、嘲(あざ)むようにいう長老もあった。

ただ、終始、熱心に聞いていたのは、権(ごん)智房(ちぼう)ひとりであった。

権智房は、青(しょう)蓮院(れんいん)の慈円僧正から、きょうの講義の首尾を案じて、麓(ふもと)からわざわざ様子を見によこした僧である。

それと、もうひとり、どこの房に僧籍をおいているのかわからないが、おそろしい武骨な逞しい体躯を持った法師が、最も前の方に坐りこんで、睨むような眼(まな)ざしで、範宴の講義が終るまで身うごきもせずに聞き入っていたのが目立っていた。

長い日も暮れて、禿(かむろ)谷(だに)の講堂にも霧のようなものが流れこんできた。

講堂の三方から壁のように見える山の襞(ひだ)には、たそがれの陰影が紫ばんで陽は舂(うすず)きかけている。

範宴は、およそ半日にわたる講義を閉じて、

「短い一日では、到底、小止観の真髄(しんずい)まで、お話はできかねる。きょうは、法(ほう)筵(えん)を閉じて、また明日(あす)、究めたいと思います」

礼をして、壇を下りた。

大勢のなかには、彼の新しい解義に共鳴したものも何人かあったとみえて、

「範宴御房!夜に入っても苦しゅうない。ねがわくは、小止観の結論まで、講じていただきたいが」

という者もあるし、また、

「きょうのお説は、われらが今まで聴聞(ちょうもん)いたしてきた先覚の解釈とは、はなはだ異なっている。われわれ後輩のものは、従来の説を信じていいか、御房の学説に拠(よ)っていいか、迷わざるを得ません」

と訴える人々もあるし、

「学問には、長老や先覚にも、遠慮はいらぬはずだ。どうか、もっと話してもらいたい。堂衆たち!明りを点(つ)けろ」

立ちわさぐものもあったが、範宴は、もう席を去って、いかにもつかれたような面もちを、夕方の山影に向けながら、縁に立って、呼吸をしていた。

すると、そこへもまた、若い学徒がすぐ行って、彼を取り巻きながら、

「きょうのご講義のうちに、ちと腑(ふ)に落ちない所があるのですが」

とか、

「あすこのおことばは、いかなる意味か、とくともう一度、ご説明をねがいたい」

とかいって、容易に、彼を離さなかった。

席をあらためて、範宴は、その人々の質疑へ、いちいち流れるような回答をあたえていたが、そのうちに、互いの顔が見えないほど、講堂のうちはとっぷりと暮れてしまった。

親鸞・去来篇1月(9)古いもの新しいもの

「範宴が山へもどってきた――」

叡山(えいざん)の人々のあいだに、それは大きな衝動であった。

彼らの頭には、範宴という人物が、いつのまにか大きな存在になっていた。

自分たちに利害があるないにかかわらず、範宴のうごきがたえず気ががりであった。

それというのも、この山の人々の頭には、十歳にみたない少年僧であった時から、授戒登壇をゆるされて、その後も、群をぬいて学識を研(みが)いてきた範宴というものが、近ごろになって何となく自分たちの脅威に感じられてきたからであった。

「一乗院が帰山したというが、いつごろじゃ」

「もう、十日ほど前にもなろう、例の性(しょう)善坊(ぜんぼう)は、それよりもずっと前に戻っていたが、範宴のすがたが見えたは、ついこのごろらしい」

「ちょうど、三年ぶりかの」

「そうさ。範宴が下山(おり)たのは、先(さき)一昨年(おととし)の冬だったから……」

「だいぶ修行もつんだであろう」

「なあに、奈良は女の都だ、若い範宴が何を修行してきたかわかるものか」

「それは、貴僧たちのことだ。範宴がおそろしい信念で勉学しているということは、いつか山へ来た宇治の客僧からも聞いたし、麓(ふもと)でもだいぶうわさが高い」

一人が口をきわめて範宴の学際とその後の真摯(しんし)な態度を褒め賞めたたえると、怠惰な者の常として、かるい嫉妬(しっと)をたたえた顔がちょっと白けてみえた。

「その範宴が、明日から横(よ)川(がわ)の禿(かむろ)谷(だに)で、講義をひらくということだが――」

と思いだしたようにいうと、

「そうそう、小止観(しょうしかん)と往生(おうじょう)要集(ようしゅう)を講義するそうだが、まだ二十二、三の若年者が、山の大徳や碩学(せきがく)をまえにおいて、どんなことをしゃべるか、聞きものだて」

「碩学(せきがく)たちも意地がわるい、ぜひにと、懇望しておいて、実は、あげ足をとって、つッ込もうという肚じゃないかな?」

「そうかもしれん。いや、そうなるとおもしろいが」

惰眠(だみん)の耳もとへ鐘をつかれたように、人々は、範宴を嫉妬した。

禿谷には、その翌日、一山の人々が踵(きびす)をついでぞろぞろと群れてきた。

講堂は立錐(りっすい)の余地もなく人で埋(うま)った。

若い学僧がむろん大部分であったが、中には、一院の主(あるじ)も、一方の雄僧も見えて、白い眉毛(まゆげ)をしかめていた。

やがて、講壇のむしろに、一人の青年が法衣(ほうえ)をさばいて坐った。

色の青じろい肩の尖った姿を、人々はふと見ちがえて、

「ほ……あれが範宴か」

と、その変りように思わず眼をみはった。

「痩せたのう」

「眼ばかりがするどいではないか」

「病気でもしたとみえる」

聴座(ちょうざ)の人々のあいだに、そんな囁(ささや)きがこそこそながれた。

しかし、範宴の唇だけは誰よりも紅かった。

そして一礼すると、その唇をひらいて、おもむろに小止観を講義して行った。