作成者別アーカイブ: 鹿児島教区懇談会

平成29年9月法話『眼を開けばどこにでも教えはある』(中期)

お釈迦さまは、覚りをひらき、仏陀として人々に教えを伝えるようになられてからも、常に問うこころ、問い続けるこころを尊び大切にされました。

それは、迷ったり悩んだりする人々の心を受け止め、その迷いや悩みにどこまでも寄り添って行かれたということです。

そして、その人自身が真実に目覚め、真実に出遇っていくことを強く願われました。

私たちは、自分が生涯をかけて問い続けるべきことは何かということについて、深く考えたことがあるでしょうか。

日々の生活に追われていると、そのようなことを考えることは、なかなかできなかったりします。

けれども、ふと立ち止まり、自らにそのことを問い、やがてそれを見出したとき、私の生涯は確かな生き方と方向性を持つことができるのだといえます。

そして、生涯をかけて問わなければならない問いがはっきりとし、その問いを問い続けていくことのできる道を見出すことができれば、人はどのような状況にあったとしても、常に生きる勇気を持ち続けることができるのだと思います。

ところが、ともすれば私たちは問いよりも既にできあがっている答えをかき集めて知識を増やすこと、言うなれば「学答する」ことをあたかも学ぶことであるかのように錯覚しています。

けれども、もともと学ぶということは、「学問する」という言い方からも分かるように、「問いを学ぶ」ことなのです。

人間として本当に問うべき問いとは何か、あるいは自分が本当に問わなければならない問いとは何か。

その問いを見出し、その問いと共に歩むことが「学問」の本質なのです。

しかしながら、一般に私たちは答えを持っていない者を愚か者だとみなし、そのためあれこれと勉強をして、少しでも多くの答えを身に付けて賢くなることに努めていたりします。

ところが、実はあらゆるものについて答えを持っているというところに、人間としての愚かさがあるのです。

なぜなら、答えを持つとき、しばしば人は本当にその事実には出遇っていないにもかかわらず、あらゆる事柄を既に「分かりきったこと」にし、勝手に決めつけてしまっている答えを判断の基準にして、まわりのすべてを無責任に判定したり評価したりしているからです。

そのため、確かに多くの知識を身に付けることはできたかもしれませんが、しかしそのことによって、反対に人間として身に付けるべき智慧を失ってしまうあり方に陥りがちです。

それを蓮如上人は、

それ、八万の法藏をしるというも、後世をしらざるを愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり。
しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教をよみ、ものをしりたるというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。

と、指摘しておられます。

あらゆる経典を学んでいても、それを知識の対象とするばかりで、自分の一生の根本問題について無自覚な者を愚者といい、たとえ一文字さえ知らない者であっても、人間としてその生を尽くし死にきっていける智慧を身に付けているならば、その人をこそ智慧あるものと呼ぶことができるのだと教えておられます。

お釈迦さまが、問うこころ、問い続けるこころを尊び大切にされたということは、一人ひとりの人間の生死の事実を何よりも深く受け止めていかれたということです。

私たちのこのいのちは、誰にも代わってもらうことのできない生活の現実をかかえて生きています。

そのため、どんなに辛くても悲しくても、その事実を全身で受け止めていくほかはありません。

そのことをお釈迦さまは見通され、人間の愚かさや悲しさを一切の偏見なしに受け止めと行かれました。

だからこそ、お釈迦さまの弟子たちはみな、お釈迦さまのもとにあって、その教えの言葉に耳を傾けているうちに、自分のありのままの姿がそのまま受け止められていくことを感じ、さらに自分の問うべき問いを見出して行ったのです。

そして、その問いと共に生きて行く中に、この身のままで輝いていくことのできる世界があることを証して行たったのだと思われます。

問うべき問いを求めようとするとき、眼を開けばどこにでも教えへの扉は開かれているのです。

さつまの真宗禁教史9月(中期)

江戸時代後期の一向宗徒取り締まり

―苛酷を極める門徒への弾圧―

いままでみてきたように、一向宗徒の取締りでまず注目されることは、江戸時代初期(明暦~寛文年間)に、特に兵農分離政策と相まって、士族の一向宗徒が摘発されて身分を百姓に降格されて居住地を移されたことです。

そしてその後、江戸時代中期にも若干の取締りの史料が残されていますが、それは寛保元年(1741)の出水郷における一向宗徒の取締りの状況にみられますように、あまり厳しい弾圧は加えられをかったようです。

また薩摩門徒は、本願寺に取締りの概況を「宗門座の人件費や諸雑費は宗門科人の罰金によって賄われています。そこで必ず毎年五、六郷ずつ一向宗徒の探索が行われますので、一つの郷は二、三十年に一度の法雉をのがれることができません」というのです。

たしかに本願寺門徒への弾圧には地域差・時代差がみられ、罪の軽重にも差がありました。

ここに真宗禁制下にもかかわらず、本願寺の教線が浸透する間隙と若干の余裕があったといえるでしょう。

しかし、天保六年(1853)には薩摩藩全土にわたって一向宗徒の取締りが行われ、摘発された本尊が二千幅、門徒は十四万人にのぼりました(薩摩国諸記)。

そして、先細布講惣代伝右衛門ら四人は、その苛酷を弾圧の様子を次のように生々しく本願寺に言上しています。

わたくしどもの南国諸講で去る天保六年に法難がおこりました。

それは国中全土にわたり根こそぎ摘発するという極めて厳しいものでした。

まず男子の一向宗徒は宗門座(鹿児島と地方の諸郷に設置された宗門取締りのための役所で、奉行一人・横目二人・書記四人・足軽十二人で構成されています)の庭に木馬を持ち出し、割木の上に正座させて膝の上に五、六十斤の石をのせ左右より短い棒で殴打します。

そのために皮肉は破れ足の骨は打ち砕かれてしまいます(薩摩国諸記)。

今を生きるしあわせ(前期)今できること、今やりたいことを精一杯やる

ご講師:河野 義行さん(松本サリン事件被害者)

今を生きるとはどういうことなのか、それは過去にとらわれないということです。

反省しても努力しても、変えることができないことがあります。

それならもうそれにとらわれる必要はないのです。

将来への不安、心配、これもいりません。

大事なのは今をどうやって精一杯生きるかということです。

寿命が延びて、平均では何年とデータは出ていても、その人がいつまで生きられるか誰にも分かりません。

明日の保障もない訳ですから来年の心配をする必要があるのか、そんな発想です。

今できること、今やりたいことをやる、それが大事だと私は思っています。

私は学生時代から、自分の人生は自分のものなのだから、世間体などにとらわれたくないと考えていました。

昭和51年に結婚しましたが、当時としてはまだ珍しい二人だけの結婚式をしました。

うちの親も妻の両親も大反対でした。

けれども、私は自分の人生だから自分の好きなようにして、自分が責任をとる。

そういう意味で親の援助は一切いらないと思い、軽井沢の教会で結婚式を行いました。

家族計画も立て、3人の子どもをもうけ、子どもは高校に入学する頃には親から切り離した生活をしてもらいたい、逆にそれまでは親の思い出をいっぱい作ってあげたいと考えました。

私は会社に勤めておりましたが、毎年夏休みには2週間休暇を取って、自給自足のようなキャンプ旅行に出かけ、短い連休でも小さなキャンプに出かけたりしました。

そして、子どもが自立したらまた夫婦でゆっくり遊ぼうと考えていました。

後年、長男の子育てにおいて問題が出たとき会社を辞めました。

当時私は長野県上田市に単身赴任中で、会社に異動を願い出ましたが、実現しなかったからです。

この時は何よりも長男のことを最優先しました。

私が寄り添うと長男の生活態度が変わり勉学にも励むようになって、無事に高校に入学することができました。

松本サリン事件が起こった年のことです。

さつまの真宗禁教史8月(後期)

出水郷における一向宗徒の摘発―その8―

前回にひき続き「出水に於ける一向宗禁制史料」(『日本庶民生活史料集成』第十八巻所収)を意訳して、一向宗徒探索の様子を見ていきます。

  • 一、 寺(源光寺)が焼失しましたので早速普請に取り掛かるところですが、水俣は竹・木がないところですので三月末より竹十八束・縄八束を進上しました。
    縄は先ごろ取り集めました銭の残りで買いました。
    竹の三束は陸路浜潮干をひそかに十九人で運びました。
    残りの竹と縄は船をかりて川筋をのぼりました。
    米の津(出水市)で積込み私が乗船しました。
    一日滞留し夜に帰国いたしました。
  • 一、遠竹休助・田島藤之丞は鍛冶打ち釘を造り進納しました。
  • 一、薩摩の一向宗徒が陣の町の寺(西念寺)付近に造った家は八、九軒あります。
    これを普請したのは七、八年前でした。
    その時、当地より材木・竹その他道具を進上し、また一向宗徒全員が二日ずつ手伝いました。
    大工・木挽は長期間逗留しました。
    造営した家は現在もございます。
  • 一、 右の竹の献納については太田村の郡山甚兵衛・原田藤右衛門にも相談しました。
    太田村から大山甚八が代表で参りました。
    当方が竹・縄を船で運搬予定であることを告げますと、太田村も竹十八束を当方にもち寄りました。
    郡山甚兵衛が同乗したそうです。
    竹を進上することは二人が相談したことに間違いありません。
  • 一、 この四月嘉志久利宮(加紫久利宮=出水市)の御田植祭があり、水俣陣の町の一向寺(西念寺)より智林、知海の二人の坊主が参りました。
    野間原御番所の外のまご山という所で村山弥五右衛門が待機し、二人の坊主が帰路のふりをして参りました。
    そこで村山弥五右衛門が二人を案内して、夜になって万左衛門宅に行き夕飯をご馳走して、それから宿所の村山弥五右衛門宅に送りました。
    多くの男女が待っており終夜説法がありました。
    その時は心ばかりの賽銭を差し上げて、また同じ道を帰りました。

平成29年8月法話『争いの種は私の心から生まれる』(後期)

最近、子どもが好きなテレビ番組の一つに、「ドラえもん」があります。

1970年代から現在に至るまで、テレビや漫画・映画など今でも人気を博していますので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

私自身も小さい頃から見ていたので、子どもよりも真剣に見入ってしまうことも・・・

そんなドラえもんの物語の一つに「のび太の結婚前夜」というファンの間では有名な物語があります。

ある時、主人公のび太君が、ドラえもんと一緒に未来へ行き、自分が結婚する様子を見に行くことになります。

タイムマシンに乗り込み、結婚前日にタイムワープをしました。

ワクワクしながら結婚相手になるしずかちゃんの様子を見に行くのですが、なんとそこで「お嫁にいくのをやめる」としずかちゃんが言い出してしまいます。

のび太君とドラえもんが驚き、どうしようかと困惑していると、結婚をためらうしずかちゃんに、お父さんが語りかけました。

「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばんだいじなことなんだからね。」

それを聞き、しずかちゃん、タイムワープしてきたのび太君やドラえもんも涙を流しました。

とても素敵なお父さんだな。

こんな風に言える、相手を見ることのできるお父さんになりたいなと思っていました。

私自身も、両親や祖父母、学校の先生などから、相手を敬い、感謝の気持ちを忘れてはいけないことを幾度も聞かされてきました。

そして我が子にもことあるごとに言って聞かせています。

しかし日常、感謝の心で生活をし「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむこと」ということは非常に難しいことです。

みんなが人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができたとすれば、争いなど決して起きるはずもありません。

よく「他人の不幸は蜜の味」と言われるように、頭ではよくない・不謹慎なことであると解っていても、他人と比較して優越感を感じたり、逆に劣等感を感じたりすることが私たちは度々あります。

そんな気持ちからも解るように、私の方が正しい、間違っていないと自分以外に責任や原因を求めると、関係性が歪みはじめ、争いや諍いの種(原因)となります。

西本願寺の大谷光淳ご門主様が初めて出版された書籍に「ありのままに、ひたむきに」があります。

その中でご門主様は、

「一般に自分の力で修行してさとりをめざす仏教では、他人に利益(りやく)をもたらす行いを「利他行」と言って重視しますが、浄土真宗の場合は、この意味での「行」はありません。

浄土真宗には私たちが今この世で実践する利他行という考え方はないのです。

自分自身が阿弥陀さまと出遇う浄土真宗的な生き方をする中で、自分一人の幸せを考えているだけでいいのかという観点から、自分の内面をしっかりと見つめていくことを大切にします。

いろいろな苦悩や悲しみをかかえている人に対して、私たちがその問題のすべてを解決して助けることはできないにしても、そういう人たちとともに生きていくというところで、社会とのかかわりが生まれてくるものだと思います。

他人の喜びを喜びとし、他人の悲しみを悲しみとする阿弥陀さま。

慈悲の心、見返りを求めない生き方。

まったく及ばなくとも、私たちも少しでもそんな生き方をしたいものです。」

と語られています。

もしかしたら、のび太君は仏さまと、すごく近い心をもっているのでは?と一人心の中で思いながら、なにか温かい気持ちになりました。

どんな生き方ができるのかというと、少し難しいと感じる方も多いかもしれません。

しかし、どんな気持ちで日々を過ごしているかを、ふと考えることは容易です。

ときどきは、自分の内面に語りかけてみることも大切にしたいものです。

南無阿弥陀仏

「念仏」は、たくさん称えるほど功徳があるのですか?

一般的に「功徳」という言葉は、善い行いによって得られる善い結果、つまり利益(りやく)や利得という意味で用いられることが多いようです。

しかもその利益とは物質的肉体的なものを主としています。

たとえば、お金とか物とか健康などといったものでしょうか。

しかしここでよく考えてみなければならないのは、かりに私たちが望むそのようなものが何でも得られたら、ほんとうに幸せになれるのかということです。

確かに貧しい人にお金が与えられ、病気の人が健康になったら幸せを感じることができるでしょう。

しかし、しばらくはそれでいいでしょうが、やがてきっとそれ以上のものを望むようになるに違いありません。

そしてそれも与えられたとしたら、今度はきっと持てるものの悩みを味わうことになるでしょう。

持てる者には持てる者の悩みがあり、持たない人には持たない人の悩みがある。

これこそ私たち人類が何万年もの昔から、くりかえし経験してきた人生のすがたではないでしょうか。

私の望むものが何でも与えられるということが、かえってそれによって苦しみに変わることもあるのですから、そのようなものはほんとうの功徳とはいえません。

有ればあってよろこび、無ければ無くてもよろこべる。

安心して生き、安心して死んでいける、そういう私たちの有無を超えたまことのよろこびを恵まれるものが、お念仏の功徳といえるのではないでしょうか。

現実の私の有り様は、自己中心的なものの見方を離れることが出来ないゆえに、多くの悩みや苦しみを抱えていかねばなりません。

しかしそのような私であるからこそ、はかることの出来ない智慧と慈悲をもって、有無を超えたまことの功徳を与え、「決して見捨てはしない。我にまかせよ、必ず救う。」と、阿弥陀さまのお心そのものが、南無阿弥陀仏のお念仏となって、つねにはたらいて下さっています。

その阿弥陀さまのよび声を、そのままに聞き受け容れて、「もったいないことでございます。有難うございます。」とお礼を申している姿が、私どもの念仏を称えている姿であります。

しかし、私たちのそうしたこころはいつまでも続きませんし、次の瞬間何が飛び出すか、わからないのが私のありのままの姿でもあります。

ですから少しでもそうした阿弥陀さまのおこころが私の中で持続するように、お念仏は場所や時間を選ばず日常的に称え、親しむということがとても大切なことであると思います。

お念仏をよろこび、口に出して日常的に称える人は、阿弥陀さまのおこころによって、その人の感性が育てられていきます。

それほどにすぐれたまことの功徳が、南無阿弥陀仏のお念仏にはすでにそなわっております。

ですからお互いにもっと口に出してお念仏申していきましょう。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏