東山の夜は早く更(ふ)ける。
三十六峰のふところは星の光も届かないで宵闇がふかい。
怖いと思い出したら足も竦(すく)んで出ないのであった。
万野(までの)は姫の心を思うと、その怖さも忘れていた。
女ごころは女でなくては理解できないものとして、彼女はあえてこの暗い夜をものともせず姫のためにすすんで、秘密な使いに出てきた。
――その使いを果たした後で、姫が、あの可憐(いじら)しい眸(ひとみ)にうれし涙をたたえ、掌(て)を合せて拝まんばかりによろこぶがために、(もし、お父君に知れたならば、自分がすべての罪を負って)とまで、悲壮な覚悟すらしているのであった。
それにつけても男心ほど浅いものはないと思う。
次の夜には必ずまた訪れようとかたく誓っていたのにその人はあれきりついに姿を見せないではないか。
一昨日(おととい)も姫は夜もすがら眠らずに待ちこがれておいでになった。
ゆうべも泣いて夜を明かされた。
女ごころは女が知る、はたの見る眼のほうが辛い。
(憎いお人)と、彼女は、そこの築(つい)地(じ)を見あげて、うらめしく思う。
聖光院の土墻(つちがき)は、万野の眼に鉄壁のように見えた。
穢土(えど)の闇と浄界の闇とを厳(いか)めしく境しているのだった。
「?……」
礫(つぶて)をほうって耳をすましている、なんのこたえもない、二つめを投げた、そして、築地(ついじ)の下に、被(かず)衣(き)のかげをじいっと佇(たたず)ませていた。
葉柳の露が、蛍(ほたる)のようにきらきらと光る。
たしかにこの前はこの辺から今のように抛(ほう)った礫へすぐ答えがあったにと思う。
さてはやはり世の浮かれ男のようにこの前のことばも嘘であったかもしれぬ、真にうけて痩せ細るほど信じている姫はいよいよご不(ふ)愍(びん)である。
もし、そういうことでもあるならば礫のみでは済ませない、明らさまに表門をたたいて男の酷薄(こくはく)を責めなければならない。
万野は、焦々(いらいら)しつつ、もう一度と小石をひろった、小石は柳の葉をちらして、遠い築地の中へ音もなく落ちた。
薄情な男へこぼす涙のようになんの反応もありはしない。
「どうしよう」
当惑した顔が被衣のうちで嘆息(ためいき)をつく。
このまま空しく帰るとしたら姫の泣き沈む姿を見なければならない。
あの傷々(いたいた)しい失意の眸(ひとみ)が涙でいっぱいになって物も得いわずに打ち伏すかと思うと、万野は帰るにも帰れない心地がするのだった。
彼女は半刻(はんとき)も立ちすくんでいた。
夜露が被衣をじっとりと寒くしてくる。
もう人を憚(はばか)る自制心すらなくなった。
今度は、廂(ひさし)を目がけて石を抛(ほう)った。
つづけざまに幾つか投げた。
すると、築地の裏戸がそっと鳴った。
紛れもない人影である。
万野は、自分の恋人でも見たように走り寄って、
「範宴さま」
恨みで胸がつまった。
その人は黒い布(ぬの)を頭からかむっていた、おしのように物をいわない、絶えずなにものかに趁(お)われるように、またなにものかを趁うように、足を早めて彼女の先を歩いてゆく。