――いつまでこの春はこう寒いのだろうか。
門外の御弟子(みでし)、聖(しょう)信房湛(しんぼうたん)空(くう)は、たまたまその夜、吉水禅房の一(ひと)間(ま)に泊ったのであるが夜もすがら花頂山のいただきから吹きおろす風や、三十六峰の樹々の音や、戸を洩る針のような寒さに、
「よく皆は寝ていられる」
と、夜の具(もの)に襟(えり)を埋(うず)めながら思った。
ミリッと時折に、柱や梁(はり)が、乾燥した空気と寒に裂ける音を走らせる。
「上人(しょうにん)もお年を老られた――この禅房の建物も」
湛空は、ふと、人間の寿命と、建物の盛衰などを思うて、うら寂(さび)しい「無」の観念にとらわれてしまった。
――こうして有りと見える柱も天井も、寒いと感じている肉体も、その「無」でしかない空(くう)でしかない。
「いつかは、形を失う日が来る……それを早めようとしているのが、叡山(えいざん)の人々だ、南都の大衆(だいしゅ)だ、高(たか)雄(お)の一山だ」
――今。
この新しい芽ばえの宗教、浄土宗の屋(おく)を吹きめぐる木枯しは、三十六峰の風ばかりではない。
おそろしい法敵がほかにはある。
叡山の大衆は、伝統の威権と、その社会的な力の上から。
明(みょう)慧(え)上人(しょうにん)をいだく高雄の僧団は、主として、教理の検討の上から。
また、奈良の解(げ)脱(だつ)上人たちは、主にその教(きょう)化(げ)の方面から、
(流行(はやり)ものの邪教を仆せ)と、叫んでいるのである。
その手段として、あらゆる運動の方法と、迫害の手が、法(ほう)然(ねん)上人の身には今、潮(うしお)がつつむように寄せつつある――
「ああ、どうなることか」
湛(たん)空(くう)は、いよいよ、身をちぢませた。
「上人は、そも、どんなお気持でおられるだろうか……」
その師の法(ほう)然房(ねんぼう)の寝所は、高縁(たかえん)を一つ隔てて彼方(あなた)にあった。
――おや?と湛空はそう思った時に頭をもたげて、自分の耳を疑うように眸(ひとみ)をすました。
唄念の声が聞えるのである。
凛々(りんりん)とした声ではないが、低いうちにも一念の倦(あ)くことなき三昧(さんまい)が感じられる念仏の声であった。
「――誰だろう?」
次の瞬間、彼は、われを忘れたように身に法衣(ころも)をつけ、つうと、縁へ出て行った。
「上人のお部屋だ……」
さまたげてはならないと誡(いまし)めながらも、彼は、次の間まで忍ぶように入って行った。
――何を思い出されて、この深夜に。
近ごろは、めっきりお体もすぐれないのだ。
ことにこの冬は、たびたび邪熱を発しては床(とこ)に臥せられていた有様である。
湛空が隙間見た燭(ひ)は白く冴えていた、氷の部屋のようにそこは冷たい、火の気のあろうはずはない。
彼は、次の間に、凍(こお)りついたように坐ったまま、師の心を、さまざまに思いいたわって、上人が眠らぬうちは、自分もこうしていようと決心した。
しんしんと草も木も眠っているこの真夜中に、ただ一人でも、師の房の念仏をどこかで魂に受けとっている者があるとすれば、一(ひと)塊(かけ)の炭火ほどでも、師の心を温かにしはせまいか――と。
湛空は、そう考えたので、
「えへん」
次の間に、侍(じ)側(そく)している御弟子(みでし)がございます――ということを知らせるつもりで、軽く咳(しわぶき)をした。
すると、翌日。
いつものように大勢の弟子たちの朝礼(ちょうらい)を受けに出てきた上人は、常になく不機嫌な顔色をして、いった。
「その辺に湛空はおらぬかの、ちょっと呼んでくだされい」