法話の後に読まれる古文は「御文章」と呼ばれるもので、一言でいえばお手紙です。
誰のお手紙かというと蓮如上人(1415~1499)というお方で、本願寺の八代目宗主にあたります。
その目的は門弟の教化の為であり、特定の個人に出すお手紙とは少し違います。
当時のご法義に対する様々な誤解を正すために出され、その数は二百数十通あるとされています。
浄土真宗本願寺派において、御文章は法話の後に必ずと言っていいほど拝読されています。
なぜ御文章を拝読するのかというと、それは浄土真宗の教義の要が平易な言葉で説かれているからであり、どんな人にも分かるよう心配りがなされているからです。
しかし、当時の言葉で書かれているため現代においては、拝読されているものを聞くだけではその内容を理解することが難しいのかもしれません。
御文章の内容の多くは信心ついて書かれているとされています。
信心というと一般的には「私の信じる心」を意味するかと思います、確かにそれもひとつ大切なことだと思います。
しかし、浄土真宗の信心とはこれとまた違った意味があり「仏様が私にはたらいている」ということを表します。
つまり「私から仏様へ」よりも「仏様から私に」という方向が強くそのことに大きな意味があり、他力の信心とも呼ばれています。
ですので、御文章の終わりの「あなかしこ」は「もったいないことです」という意味で、仏様のそのおはたらきを感謝するお言葉で締められています。
蓮如上人の有名な御文章の一つに「信心獲得」と呼ばれるものがあります。
<信心獲得章(一部抜粋)>
「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。~」
※現代語訳「御文章 ひらがな版 ~拝読のために~」より
「信心を得るというのは、第十八願を心得るということであり、それはとりもなおさず、南無阿弥陀仏のいわれを心得るということです。~」
私たちにおいて信心をいただくという事は、南無阿弥陀仏のいわれをお聞かせ頂く事とあります。
いわれとは物事の起こった理由です。
南無阿弥陀仏がなぜ生まれたのか、それは私たちの為です。
自覚はないかもしれませんが、阿弥陀仏から見た私たちのすがたは迷い苦しんでいるすがたであると映っています。
その私たちを必ず浄土の仏として救ってみせるという阿弥陀仏の願いがことの始まりであり、その願いが私たちに届くかたちになったものが南無阿弥陀仏です。
ですのでその願いをそのまま受け入れ南無阿弥陀仏と称えさせて頂くことが、そのまま信心を頂くということにつながっていくのではないかと思います。
蓮如上人は御文章を通して、阿弥陀仏からの「あなたを必ず浄土の仏として救いますよ」というお誓いにすべてを任せる道を私たちにお示し下さっているのではないかと思うところでございます。
合掌。