私たちの社会には、「幸せ」を測るための、目に見えない「ものさし」があるようです。良い学校に入り、安定した会社に就職し、高い収入を得て、素敵な家庭を築く。そうした競争の階段を上り、「一番」に近い場所にいることが、幸せな人生だと考えられています。多くの人が、そのレースで少しでも良い順位を得ようと、日々努力を重ねています。
しかし、本当にそうでしょうか。もし、人生の価値が順位だけで決まるのだとしたら、ほとんどの人は幸せになれないことになってしまいます。東井義雄先生の「一番より尊いビリだってある」という言葉は、私たちに「その競争から、一度降りてみませんか?」と、まったく別の世界を指し示しています。
この言葉が教えてくれるのは、順位や効率とは別の場所にある、「豊かさ」の存在です。例えば、目的地まで一番乗りを目指して車で駆け抜けるのではなく、道端の名もなき草花に気づき、季節の風の匂いを感じながら、ゆっくりと歩いてみる。それは競争の観点から見れば「ビリ」の生き方かもしれません。しかし、その歩みの中には、効率やスピードを追い求める中では決して得られない、味わい深い喜びや発見があるはずです。
人生もまた、同じことが言えるのではないでしょうか。私たちはつい、目に見える成果や肩書といった「一番」の称号を追い求めがちです。しかし、人生の本当の豊かさは、そうした競争の勝ち負けの外側にあるのかもしれません。
家族と笑いあった何気ない食卓の時間。友人とただ黙って夕日を眺めた思い出。誰かのために流した涙。それらは、順位をつけることのできない、かけがえのない宝物です。自分の弱さや失敗、つまり「ビリ」の経験があったからこそ、人の優しさに触れ、感謝の念が生まれ、人生の深みが増していく。東井先生の言う「尊いビリ」とは、そのような、人間的な温かみや深みを取り戻させてくれる経験のことではないでしょうか。
仏さまは、私たちのことを社会的地位や能力の順位で判断されることはありません。どのような人生を歩んでいようとも、一人ひとりの存在そのものが、ただただ「尊い」のだと教えてくださいます。
「一番」を目指すことに疲れた時、どうぞこの言葉を思い出してください。順位という一つのものさしから自由になった時、私たちの足元には、すでに数えきれないほどの「尊い」幸せが満ちていることに、きっと気づかされることでしょう。
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