さぁ2026年がスタートしました。
「今年はどんな年になるだろう?」
私たちの人生は、お天気と一緒です。ずっと晴れの日(喜び・
「いつも阿弥陀様がご一緒」
これは、「これからの人生に、
遠くから「頑張れ」と言うのではなく、
「嬉しい時はもちろん、誰にも言えない辛い時こそ、
そう思えると、不透明な未来への恐怖が、少しだけ「安心」
何が起きるかわからない一年だからこそ、「いつも一緒」
「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と手を合わせる時、

さぁ2026年がスタートしました。
「今年はどんな年になるだろう?」
私たちの人生は、お天気と一緒です。ずっと晴れの日(喜び・
「いつも阿弥陀様がご一緒」
これは、「これからの人生に、
遠くから「頑張れ」と言うのではなく、
「嬉しい時はもちろん、誰にも言えない辛い時こそ、
そう思えると、不透明な未来への恐怖が、少しだけ「安心」
何が起きるかわからない一年だからこそ、「いつも一緒」
「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と手を合わせる時、
十二月、師走を迎え、何かと気忙しい毎日をお過ごしのことと存じます。江戸時代の俳人、小林一茶にこんな一句があります。
「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」
この句を現代語に訳すと「この一年、さまざまのことがあったが、あれこれ考えたところでどうにもならない。今となってはすべてを阿弥陀如来様にお任せして、年の暮れを迎えることにしよう。」となります。作者の小林一茶は、この句が詠まれた年の6月に愛娘を天然痘という病気で亡くしています。恐ろしい病気の娘を看病しながら、親として精一杯のことをしたあげたことは容易に想像できます。
しかし、我が子は亡くなってしまった。その年に詠んだ句がこの句でした。
一茶の句が持つ「おまかせ」の心は、自分の力でできる限りやった結果、どうすることもできなかったことから生まれるものかもしれません。しかし、そもそも人の生き死ににおいて、私たちが自分でできることがどれほどあるのでしょうか。一茶は愛娘の死という厳しい現実の中にあって、私のこのままをまかせていけるはたらきがあると実感されたのではないでしょうか。それは「自分の力で何もかも解決できる」という思い込みを手放し、初めから阿弥陀様の大きな慈悲の心に、自分のすべてを委ねていく生き方を指します。
これは、決して投げやりな諦めではありません。むしろ、「私が何とかしなければ」と自分一人で背負い込み、不安や焦りに苛まれる生き方からの解放です。「あなたの人生、あなたの苦しみも悲しみも、すべてこの私が引き受け、決して見捨てはしない」と呼びかけ続けてくださる阿弥陀様がいらっしゃる。その大きな呼び声を聞き、「はい、おまかせします」と頷かせていただくところに生まれる、絶対的な「安心感」なのです。
慌ただしい年の暮れ。私たちはつい、自分の力だけで物事を片付けようと、肩に力が入ってしまいがちです。しかし、私たちの力には限りがあります。思うようにいかないことも、どうにもならないこともたくさんあります。
そんな時こそ、この一句を思い出してみてはいかがでしょうか。ただ「どうにでもなれ」と開き直るのではなく、「大きな仏様が、すべてをご存じで、引き受けてくださっている」と、その温かい眼差しに我が身を委ねてみる。そうすれば、焦りや不安が、きっと穏やかな感謝の気持ちへと変わっていくことでしょう。
「阿弥陀さま、今年も一年ありがとうございました。来年もまた、あなたにおまかせの一年を大切に生きていきます。」と、心安らかな年の瀬をお過ごしいただきたいと存じます。
「見えなくなっても、つながりは切れない」
大切な人が亡くなった時、「もう二度と会えない」という思いに胸がしめつけられます。写真や思い出の品を前に涙があふれることもあるでしょう。命日は、そんな悲しみがあの日から何年たったかを数える日、と感じておられる方も多いと思います。
けれども浄土真宗では、命日を「ご命日」と呼び、「大切な方が仏さまとなられた日、お浄土に生まれて行かれた日」として受けとめていきます。姿は見えなくなりましたが、決して私とのつながりが切れたわけではありません。方向が変わったのです。こちら側から手が届かなくなった存在ではなく、向こう側から私を見守り、はげまし続けてくださる仏さまとなられた。そのようにいのちを見て行くのです。
たとえば、夕方になると家の明かりがともります。外から見ると、窓の向こうで家族が笑ったり話をしたりしている様子は、はっきりとは見えません。でも、「あの光の中に、確かに家族がいる」と感じます。お浄土に生まれた方も同じです。その姿は、この目には見えません。しかし、お念仏のはたらきとなって、今も私たちを照らし続けてくださっています。
阿弥陀如来は、「どんな人も見捨てない。必ず救いとる」という願いを立てられました。その願いに抱かれてお浄土に生まれた方は、悲しみや迷いに翻弄されていた私たちと同じ人間でありながら、今は仏さまとなって、同じように苦しむ私たちに寄り添ってくださる存在になっておられます。
ご命日のお参りは、ただ過去の思い出に浸る時間ではありません。仏さまとなられた故人と、今この瞬間に出会い直す大切なひとときです。手を合わせてお参りする時に、「お父さん、今日もありがとうございます」「お母さん、見ていてくださいね」と心の中で語りかけてみてください。それは、離れ離れではない、いつもご一緒なことを感じることのできる瞬間でもあります。
お姿は見えなくなっても、つながりは切れていません。ご命日は、そのつながりをたしかめる日であり、「死んで終わり」ではないいのちの広がりを教えてくれる日でもあります。そのご縁をいただきながら、今日も一日を大切に歩ませていただきましょう。
浄土真宗のお浄土には、
日常生活では「みんな同じようにできないとダメ」「
例えば、「青色青光」「黄色黄光」など蓮の花の様々な色と光は、
社会の中で「他人と比べてしまう」「うまくできない」
9月に入り、厳しい残暑の中にも微かな秋の気配を感じます。
私たちは普段、
「ご恩送り」とは、
お彼岸は、ご先祖さまへの感謝とともに、
南無阿弥陀仏、お念仏の慶びもおすそわけしていきたいものです。
こんにちは。今月のカレンダーには「『追悼』同じ過ちは 二度と繰り返しません」という、
しかし、歴史を振り返ってみると、私たち人類は「平和を願う」
お釈迦様は、私たち人間を、煩悩(ぼんのう)から離れられない「
自分の力で立てた「不戦の誓い」がいかに脆いものであるか。
阿弥陀如来の願い(本願)とは、「すべてのものを、
この分け隔てのない阿弥陀如来の「平和の願い」