投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

ちがいがあっても 輝きあえる

浄土真宗のお浄土には、一人ひとりのいのちが比べようもなく輝いています。それは、違いがあるからこそ互いに輝き合えるということです。お浄土の蓮の花は青・黄・赤・白、それぞれ色も光も違うけれど、それぞれがその色の光を放ちながら共に尊く咲いている―この姿こそがお浄土の世界の象徴です。私たちのいのちも同じで、誰かと比べて良い悪いを争う場ではなく、一人ひとりが唯一無二の輝きを放つ尊いものです。

日常生活では「みんな同じようにできないとダメ」「あの人と比べて自分は劣っている」と自分と他者とを比べて自分のいのちの尊さになかなか思いが向くことはないかもしれません。お浄土の教えは、違いを認めて「あなたはあなたのままでいい」と言ってくれます。阿弥陀さまの光は、月の光のように、私たちの弱さも含めてずっと照らし続けています。そのような阿弥陀如来のはたらきに出会えるのは、「聞法(もんぽう)」仏法を聞き開いていく営みなのです。

例えば、「青色青光」「黄色黄光」など蓮の花の様々な色と光は、それぞれ違う個性を示しています。これはお浄土でのいのちの姿のたとえで、違いを認め合うことが極楽浄土の豊かな世界なのです。私たちも違いがあるからこそ、それぞれの輝きが生まれ、互いに響き合うことができます。

社会の中で「他人と比べてしまう」「うまくできない」と悩むことも多いでしょう。でも、お浄土の教えは「どんなあなたもそのままで輝いている」と伝えています。たとえちがいがあっても、お互いの光を見つめ合いながら共に輝きあえる関係を築くこと、それが仏さまのお浄土の世界です。だからこそ、あなたのいのちの輝きを否定することなく、今ここにあるあなたの存在を認めてみてください。阿弥陀さまの絶えざる光に照らされ、どんなちがいも尊く尊い個性として輝いているのです。

「ご恩送り」いただいた「御恩」のおすそわけ

9月に入り、厳しい残暑の中にも微かな秋の気配を感じます。9月といえば、お彼岸の月になります。今日は「ご恩送り」という言葉について、お話しさせていただきます。

私たちは普段、自分一人で生きているような気持ちになりがちですが、実は目に見えない多くの方々のご恩に支えられています。朝起きて飲む一杯のお茶も、お米一粒も、数え切れない人の手を経て私たちの元に届いています。

「ご恩送り」とは、いただいた恩を直接その人にお返しするのではなく、別の誰かに送ることです。電車で席を譲ってもらった方に直接お返しはできませんが、今度は自分が困っている人に手を差し伸べる。そんな温かい心の循環です。

お彼岸は、ご先祖さまへの感謝とともに、私たちが今ここに生かされていることへの気づきの時でもあります。阿弥陀さまの無条件の慈悲も、私たちに何かを求めているのではありません。ただただ、その温かさを受け取り、日々の暮らしの中で少しずつ、周りの方々に「おすそわけ」していく。それが私たちにできる、ささやかな恩送りなのかもしれません。

南無阿弥陀仏、お念仏の慶びもおすそわけしていきたいものです。

『追悼』同じ過ちは 二度と繰り返しません

こんにちは。今月のカレンダーには「『追悼』同じ過ちは 二度と繰り返しません」という、重い誓いの言葉が記されています。この言葉が指し示す「過ち」とは、申すまでもなく「戦争」のことです。私たちはこの言葉を前にし、戦争で犠牲になられた数えきれない方々を追悼し、心から「二度と戦争はしない」という非戦の誓いを新たにします。

しかし、歴史を振り返ってみると、私たち人類は「平和を願う」と口にしながらも、争いをやめることができませんでした。「二度と繰り返しません」という固い誓いが、何度も破られてきたのが、悲しい現実です。なぜ、こんなにも悲惨な過ちを繰り返してしまうのでしょうか。

お釈迦様は、私たち人間を、煩悩(ぼんのう)から離れられない「凡夫(ぼんぷ)」であると教えられました。煩悩とは、自分さえよければよいという貪りの心、自分と違うものを許せない怒りの心、物事の真実が見えない愚かさです。この煩悩の火種が、私の心の中で燃え上がると、それはやがて「私が正しい、相手が間違っている」という独りよがりな「正義」となります。そして、その「正義」が国や民族という大きな主語になった時、相手を打ち負かすための「戦争」という、最も悲惨な過ちへと姿を変えるのです。

自分の力で立てた「不戦の誓い」がいかに脆いものであるか。このどうしようもない事実を見つめるところから、私たちの平和への道は始まります。自分の正しさを頼りにするのではなく、そのような私たちをこそ決してお見捨てにならない、阿弥陀如来という仏様の「願い」に耳を傾けていくのです。

阿弥陀如来の願い(本願)とは、「すべてのものを、ありのままに、必ず救う」というものです。そこには、敵も味方も、善人も悪人も、国籍も民族も、一切の分け隔てがありません。争い合うすべての者に対して、「ともに、私の光の中に生きよ」と呼びかけ続けてくださるのが、阿弥陀如来なのです。

この分け隔てのない阿弥陀如来の「平和の願い」を聞かせていただくとき、私たちは初めて、自分の「正義」という小さな殻を破ることができます。「同じ過ちは繰り返しません」という誓いは、もはや私一人の決意ではなく、阿弥陀如来の大きな願いに導かれた、感謝の念仏となっていくのです。南無阿弥陀仏と称える声は、敵と味方の境界線を溶かし、すべてのいのちが共に平和に生きる世界を願う、仏様からの呼び声なのです。

 

自分の悲しみを通して 人間の悲しみをしる

日本人の8割が病院での死を迎える今にあって、鹿児島県の与論島では半数の人が『住み慣れた自宅で最期を迎えたい』と在宅死を選ばれているそうです。某新聞の記事を紹介させていただきます。

 

【与論町に住む朝岡勝雄さん(当時86歳)は、鹿児島市内の病院で末期の大腸がんと診断を受けた。病院での治療はせずに自宅に帰ることを望んだ。
ベッドは自宅の玄関を入ってすぐの部屋に置いた。家族が帰ってくる足音が聞こえる場所である。自宅に帰った昨年5月からの10か月間は、デイケアで仲間と過ごしたり、牛の様子を見に行ったり普段通りの生活を過ごした。年が明け寝たきりになると、島にいる子ども3人の家族が、24時間体制で見守った。島外にいる子どもや孫たちも代わる代わる勝雄さんを見舞った。
「ありがとう」勝雄さんはよく呟いた。
長女の日高静香さん(54歳)は父を看取り、身体を拭いているとき、家族と昔のことを思い出して笑いあったのを覚えている。「本当に寂しかったけれど、父が望む生活をみんなで支えられた。きっと満足してくれている。」そんな気持ちだったと述懐されている。】

 

病室で機械に囲まれ、一人で死を迎えるのに対し、家にいることで心が癒され和らぎ、最後まで家族とともに過ごしながら死を迎えられるというのは、看取る側にとっては、同じ悲しみでも納得して受け止めることのできる悲しみではないかと思います。

思い通りにしようという思いが 苦しみを生む

「定年後は趣味の園芸を楽しもうと思っていたのに、野菜はうまく育たないし、花も思うように咲かない。こんなはずじゃなかった」

60代の男性からこんなお話を伺いました。長年会社で責任ある立場にいらした方で、物事をきちんと管理し、計画通りに進めることに慣れていらっしゃいました。

しかし、植物を相手にした途端、今まで通用していた方法が通じません。水をやりすぎて根腐れを起こしたり、肥料を与えすぎて逆に弱らせてしまったり。「なぜ思った通りに育たないのか」と、ついイライラしてしまうとおっしゃいました。

でも、その方は続けてこうも話されました。「最近になって、植物には植物のペースがあることが分かってきました。私が急かしても仕方がない。むしろ、毎日の小さな変化を楽しむようになったら、園芸が面白くなってきました」

現役時代は「結果を出す」ことが重要でした。しかし人生の後半戦では、結果よりもプロセスを大切にする生き方があるのかもしれません。

仏教には「他力」という言葉があります。自分の力だけでは限界があることを認め、自分を超えた大きな力に身を委ねるという意味です。これは諦めることではなく、かえって自然体で生きることの大切さを教えています。

思い通りにならない人生の中にも、きっと思いがけない発見や喜びが待っています。肩の力を抜いて、今この瞬間を大切に歩んでいきたいものです。

一番より尊いビリだってある(東井義雄)

私たちの社会には、「幸せ」を測るための、目に見えない「ものさし」があるようです。良い学校に入り、安定した会社に就職し、高い収入を得て、素敵な家庭を築く。そうした競争の階段を上り、「一番」に近い場所にいることが、幸せな人生だと考えられています。多くの人が、そのレースで少しでも良い順位を得ようと、日々努力を重ねています。

しかし、本当にそうでしょうか。もし、人生の価値が順位だけで決まるのだとしたら、ほとんどの人は幸せになれないことになってしまいます。東井義雄先生の「一番より尊いビリだってある」という言葉は、私たちに「その競争から、一度降りてみませんか?」と、まったく別の世界を指し示しています。

この言葉が教えてくれるのは、順位や効率とは別の場所にある、「豊かさ」の存在です。例えば、目的地まで一番乗りを目指して車で駆け抜けるのではなく、道端の名もなき草花に気づき、季節の風の匂いを感じながら、ゆっくりと歩いてみる。それは競争の観点から見れば「ビリ」の生き方かもしれません。しかし、その歩みの中には、効率やスピードを追い求める中では決して得られない、味わい深い喜びや発見があるはずです。

人生もまた、同じことが言えるのではないでしょうか。私たちはつい、目に見える成果や肩書といった「一番」の称号を追い求めがちです。しかし、人生の本当の豊かさは、そうした競争の勝ち負けの外側にあるのかもしれません。

家族と笑いあった何気ない食卓の時間。友人とただ黙って夕日を眺めた思い出。誰かのために流した涙。それらは、順位をつけることのできない、かけがえのない宝物です。自分の弱さや失敗、つまり「ビリ」の経験があったからこそ、人の優しさに触れ、感謝の念が生まれ、人生の深みが増していく。東井先生の言う「尊いビリ」とは、そのような、人間的な温かみや深みを取り戻させてくれる経験のことではないでしょうか。

仏さまは、私たちのことを社会的地位や能力の順位で判断されることはありません。どのような人生を歩んでいようとも、一人ひとりの存在そのものが、ただただ「尊い」のだと教えてくださいます。

「一番」を目指すことに疲れた時、どうぞこの言葉を思い出してください。順位という一つのものさしから自由になった時、私たちの足元には、すでに数えきれないほどの「尊い」幸せが満ちていることに、きっと気づかされることでしょう。