投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

晴れの日もよし 雨の日もよし いつも仏の慈悲の中

昔、小学生のピアノコンクールを見る機会がありました。私が会場に入るとちょうど司会の方が次の演奏者の案内をされたところでした。舞台袖から可愛らしいドレスに身を包んだ一際小さな女の子が、緊張した面持ちで出てきました。観客席に深く丁寧に挨拶をして、足もつかないようなピアノに飛び乗って、演奏を始めました。最初は上手に弾いていましたが、緊張のためか間違ってしまい、思いもしない音が響きます。少し間を置き、呼吸を整えて、もう一度間違ったところから女の子は演奏をスタートします。しかし、一度狂った調子は取り戻せず、そのあとも何度も止まってしまいます。肩をガタガタ震わせていましたので、泣いているのかもしれません。観客席は心配してその子を見守っています。舞台袖では先生が出て行こうか躊躇しています。それでも女の子は決して演奏を止めようとはせず、最後まで1人で立派に弾き切り、一際大きな拍手が観客席から起こりました。演奏を終えた女の子の観客席に見せた表情は真っ青で、唇を一文字にかみしめ、両手の拳はぎゅっと握りしめて、泣くものかという意思が伝わってきます。始まる前の丁寧なお辞儀とは違い、ちょこんと頭を下げて、そのまま早足に舞台を降りて行きました。そして、舞台を降りた女の子は、降りるやいなや、どこかへ向かって駆け出しました。ドレスの裾を踏んで転びそうになりながら向かった先は、お母さんの胸の中でした。その胸の中から会場中に響き渡るほど大きな泣き声が聞こえていました。

私はその様子をみながら、女の子は舞台の上では泣けなかったのだなと感じました。お母さんは、女の子が今日の発表会のためにどれほど頑張っていたか、どんな思いで今日を迎えたか、間違ったときにどれほど悔しかったか、全部知っていたのでしょう。きっと、いつも応援してくれていたお母さんの腕のなかだから泣けたのだなと感じ、泣ける場所があるということが有難いことだなと思いました。私たちも生きていればあの女の子のように泣きたい時もあろうと思います。しかし、この社会は「しっかりしなさい、頑張りなさい」の風がピューピュー吹いていまして、簡単には泣かせてはくれません。

浄土真宗で大切にしている仏さまを阿弥陀仏(あみだぶつ)と申します。源信(げんしん)というお坊さんは、往生要集(おうじょうしょうしゅう)というお書物のなかで、この阿弥陀さまのことを「極大慈悲母(ごくだいじひも)」とおっしゃられました。阿弥陀さまは、私たちのすべてを知り尽くし、抱きとってくださり、決して離れることのない、極めて大きなお慈悲の母のような仏さまです。
「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」とその名前を称えるものは、そんな安心して涙をながせるはたらきのなかに身を置かせていただいています。

「お互いさま」許されながら生きている

満員電車に乗った時や車が渋滞している時に、「何でこんなに混んでいるんだ。同じような時間に乗らないで」と思うことでしょう。満員電車や渋滞は自分以外の人や車のせいで起こっているかのような勘違いをしていまいます。よく考えてみると、満員電車の中の1人は私です。渋滞している車の一台は私の乗っている車です。「お互いさま」です。

おいしい食事をいただきました。その分の代金を払うのだから、「感謝されこそすれ、感謝する必要はない」と思っていませんか。お金があっても、その料理を作ってくれる人や農家さん、漁師さんがいなければ食べることはできません。「お互いさま」です。

お互いに色々な思いや苦労をやりとりして生きているのです。それらに思いを馳せ、感謝する言葉が「お互いさま」でありましょう。

楽しい時に笑顔が育ち 苦しい時に心がそだつ

仏教ではこの世界のことを「娑婆」と呼びます。これはsahā(サハー)という古いインドの言葉の音を漢字にあてて表記したもので、意味としては、忍土(ニンド)とか忍苦土(ニンクド)と訳され、この世界は「苦しみに耐えていく世界」と言う意味になります。人生は「苦」を離れることができないと言うことが、真理であると説かれています。

人は誰もが、辛いこと苦しいことよりも、楽しいこと嬉しいことが多い人生を望んでいるのではないでしょうか。しかし「幸せな人生を過ごしたい」と願う一方で、辛いことや悲しいことにもやっぱり出会っていかなければなりません。

人はみんな、生まれ、老い、病気をし、いのちを終えていくことから逃れることができません。そして、こうありたい、こうしたい、と願いながらも、それら全てが実現するような人生はどこにもありません。

仏教にたずねてみますと、嬉しいこと楽しいことはもちろん、辛いこと苦しいことも含めて人生に無駄なものは何一つないと教えてくれます。困難に出会って、育つものがあるとすればそれは何でしょう。困難に立ち向かう気持ちもそうでしょう、困難を受け入れる心もそうでしょう。立ち上がることのできないような大きな困難に出会った時、他者への共感が生まれてきたり、困難な状況の中でこそ見えてくるものもきっとあるのではないでしょうか。

私たちのご本尊、阿弥陀如来は、「あなたがどの様な縁に触れようとも、どの様な状況におかれたとしても、あなたを決して一人にはしません」と、はたらいてくださる仏様です。「楽しい時に笑顔が育ち 苦しい時に心がそだつ」とても素敵な言葉です。

梅一輪 大千世界の 春やどす

梅の花が咲きだしました。梅の花に春の訪れを感じ、これからだんだんと過ごしやすくなっていくのだろうと嬉しくなります。

今月のことばの中に出てきました「大千世界」。なかなか聞きなれない言葉かもしれません。古代インドでは、太陽も月も星もひっくるめて、私たちが過ごす一つの世界と考えていました。今でいう太陽系のようなものでしょうか。そのような世界が千個集まったものが小千世界で、小千世界が千個集まったものが中千世界、中千世界が千個集まったものが大千世界といいます。ですから大千世界とは想像も及ばないような大きな大きな世界のことを言います。

一輪の小さな梅の花ではありますが、この花が咲くためには風雪を耐えた枝木の頑張りがありました。また地中に張った根のおかげもありました。根は目には見えませんが、地上の枝の広がりと同じくらい地中で根を広げているとも言われます。梅の木だけの頑張りだけではありません。それを支える地面、降り注いだ太陽の光、潤いを与えた雨、さらに目には見えない、言葉でも説明できない無数のご縁もあったことでしょう。

春をつげる小さな梅の花の中に、広大な大千世界の想像もできないような繋がりや支えが宿っているのです。

 

 

無量寿「われ限りない いのちを 生きる」令和6年1月法話

新年をお迎えしました。今日という日は二度と来ない今日一日です。新年にあたり改めてここに今日いのちいただいて生かされていることをしみじみと有り難くいただくことです。

新型コロナウイルス感染症の影響が長く続いている現状ではありますが、昨年の年末に地元の地域の自治会の忘年会が久しぶりに開催されました。まだまだコロナ禍ではありますが、withコロナを見越して少しずつ地域の行事も開催されつつあります。

私たちは、生・老・病・死という問題を抱えて生きています。アンチエイジング(抗老化)といわれますように、老化に抗い、エステや整形等いろんな努力をして表面上は若くみえても、やっぱり1年いちねん年を重ねていかなければなりません。そして縁がととのえば病気にもなります。そして死を避けることは誰にもできないのです。

その生・老・病・死の人生を生きていくなかで思い通りにいかない現実を避けていくのでなく真正面から引き受けて乗り越えていく智慧を与えてくださるのがお念仏のみ教えです。

親鸞聖人は35歳の時、念仏弾圧により越後(新潟県の国府)に流罪になられた時に、その不条理さに憤りを感じながらも、越後の方々にお念仏のみ教えをひろめていくご縁として受け止めて赴いていかれました。

どのような状況の中でも阿弥陀如来さまの智慧の光に照らされながら、そして過去・現在・未来を貫きいつでも見護ってくださるお慈悲のぬくもりにつつまれながら、その現実を受け止め力強く生き抜いていかれました。

今私たちは阿弥陀如来さまのおはたらきによっていつでもどこでも見護られ、支えられ、命の縁尽きたと同時に無量の寿をいただいてお浄土へと生まれ往き、必ずかならず仏とならせていただく身とさせていただいております。このことに思いをいたしながら今年もまた一日いちにちお念仏申す日暮らしを送らせていただければと思うことです。

 

今年も泣いた笑った生きてきた

泣いたり笑ったりして生きてきた今年一年も残りわずかとなりました。

泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑っていられたら良いのですが、私の心は私の思い通りにはなりません。泣きたくなくとも悲しくなりますし、いつまでも笑って過ごしたいと思っていてもそうはいかなくなるものです。人のことを憎みたくないけれど、時には憎しみでいっぱいになることもあります。腹なんか立てたくないけれど、腹が立って仕方ない時もあります。人は思い通りにならない自分の心を思い通りにしようとすることで苦しんでいかねばならないのです。

真理を覚られたお釈迦さまは、

「自己は自分のものではない」

と説かれました。「自己」とは自分の身体と心のことです。この身体はいつか崩壊していくもので永遠不滅のものではありません。心は一瞬前のことが現在に続き、現在のことが一瞬後に続いていきます。この一連の流れが心であり、心は確かな実体があり存在しているのではないと仏教では説かれています。

ところが私たちは身体や心を永遠不滅のものと考え、実体視しています。そしてそれらを自分のものと思い込み執着していきます。いつかはなくなるものであり、すべて一時的なものであり、ましてや自分ものではありません。これに欲望をいだき、執着し、悩み苦しむのが私たちの姿であります。

そのような私の姿が確かな教えに出遇うことによって知らされます。

その確かな教えをよりどころとすることによって、悩み苦しむ迷いの生き方を離れていく道が明らかになってきます。