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正信偈には、どのようなことが書かれているのですか?

正信偈(しょうしんげ)は、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がお書きになられた『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』という聖典の中の一節です。

『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』あるいは『御本典(ごほんでん)』とも言われます。

『顕浄土真実教行証文類』は「教文類(きょうもんるい)」「行文類(ぎょうもんるい)」「信文類(しんもんるい)」「証文類(しょうもんるい)」「真仏土文類(しんぶつどもんるい)」「化身土文類(けしんどもんるい)」の6巻でできています。

この中の「行文類」の最後のところに正信偈が出ています。

正信偈は7言60行120句の漢詩で、正式には「正信念仏偈」といい、念仏を正信する偈(うた)という意味で浄土真宗の教えの要が凝縮されています。

正信偈は大きく3段にわけることができます。

まず、冒頭の2句「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を「帰敬序(ききょうじょ)」といいます。

「限りない命の如来に帰命し、思い量ることのできない光の如来に帰依したてまつる」と、阿弥陀如来からいただかれた信心が、この2句に表明されています。

次に「依経段(えきょうだん)」(法蔵菩薩因位時~難中之難無過斯)は、『仏説無量寿経』によって阿弥陀如来と釈尊の徳を讃えられた章です。

『仏説無量寿経』は、親鸞聖人が真実の教えが説かれているために大切にされた経典で「依経」とは「この経典に依る」という意味です。

この章では、まず阿弥陀如来がすべての衆生を救う願いを起こし建立されたお浄土と、そこに生まれる道が説かれています。

続いて、釈尊がこの世に出られた理由は阿弥陀如来の願いを説くためであったことを讃え、最後に阿弥陀如来からいただいた信心の徳が表されています。

後半の「依釈段(えしゃくだん)」(印度西天之論家~唯可信斯高僧説)はインド・中国・日本と3国にわたって、この教えを伝えて下さった7人の高僧方(7高僧)を讃える章です。

7高僧は、インドの龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)・天親菩薩(てんじんぼさつ)。

中国の曇鸞大師(どんらんだいし)・道綽禅師(どうしゃくぜんじ)・善導大師(ぜんどうだいし)。

日本の源信和尚(げんしんかしょう)・源空聖人(げんくうしょうにん)です。

この高僧方は、釈尊の説かれた教えを、それぞれの時代の中で自らの生き方を通して検証され、また、著書(論釈)によって独自のもののとらえかたをおしめしくださいました。

正信偈にはおおまかに以上のようなことが書かれてあります。

親鸞聖人が釈尊のまことの教えに帰依し、7高僧の書かれた書物を拝読し、阿弥陀如来のご恩の深いことを知り、報謝のために書かれたのが正信偈です。

私たちも正信偈を拝読し、お勤めさせていただき、その深いお心を味わいたいものです。

解説書を読んでみたり、お寺でお聴聞を重ねてさらに味わいを深めていただければと思います。

 

 

ひらかれていた道といのち(中期)親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀さまの「本願」

仏教には多くの仏さまがおられますが、浄土真宗の仏さまは阿弥陀如来です。

インド語で「アミター」といい、それを漢字で表記したのが「阿弥陀」です。

カタカナ3文字の後半「ミター」は「量る」という意味です。

この「量る」というのは、すべて限りがあるということを意味しています。

最初の「ア」は非常口の「非」とか、可否の「否」または「無」という意味を表しています。

ですから「ア」と「ミター」が合わさった場合には「量ることができない」ということで「無限」とか「無量」というような意味になります。

何について量れないのかというと、これもインド語で「アミターユース」とか「アミターバー」という言葉があり、「アミターユース」いうのは寿命、時間です。

寿命が限りない仏さまがアミター(阿弥陀)です。

「アミターバー」は「光」という意味で、仏さまのひかりが限りのないことを表しています。

阿弥陀さまは、いつでもどこでも私たちを救うはたらきを止めることがない、そういう仏さまであると名前で表しておられるのです。

阿弥陀さまは西方のお浄土におられて、生きとし生けるすべてのものを「必ず救うぞ」と呼び続けていらっしゃいます。

どのように救ってくださるのかというと、すべてのものを「南無阿弥陀仏」と念仏する身に育て上げ、そしてお浄土に生まれさせて「仏(ぶつ)」とならせ、真理に目覚めさせる、そういう救い方です。

私たちは旅行をし、温泉に入り、ごちそうを食べ、お酒を飲み、カラオケで歌い、そんなことを日々の喜びや楽しみとし、そんな機会に多くあやかりたいと望みがちですが、そんな私たちに向かって、仏さまは「お浄土に生まれさせて仏とならせるぞ」とおっしゃいます。

私たちの願いと仏さまの願いとは食い違っているかのようですが決してそうではありません。

「良いことをしましょう、悪いことを慎みましょう」という言葉は3歳の子どもでも知っていますが80歳の人でもその通りにできるかどうかはわかりません。

このことが大きな問題です。

良いことをして悪いことを慎むということは常識や道徳に合致していて、とても分かりやすい。

分かるけれどもその通りできているかと問われれば、返答に窮することがあります。

教えがいくら立派で尊くても、自分とかけ離れたものであったならそれは教えとして成り立ちません。

そのことを突き詰め、身をもって悩み、仏さまに教を仰ぎながら生きられたのが親鸞聖人です。

1173年に生まれ1263年に亡くなられるまで90年のご生涯で阿弥陀さまの教えをお喜びになり、そしてその内容を私たちに明らかにしてくださいました。

多くの書物を残しておられますが、その書物も大体50歳以降、特に80歳代ぐらいになってから多く著しておられます。

「歎異抄(たんにしょう)」という書物の中に「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」という一文があります。

「業縁」とは、いろいろな条件の巡り合わせによって、私たちはどんな極悪な行ないをもしうる可能性をもっているということです。

「業」とは、結果を導く原因をもった力という意味です。

仏教では「三業(さんごう)」といい、「身・口・意(しん・く・い)」という結果を引く心と体の動きのことを表しています。

また、親鸞聖人は仏さまが自分のことを「憐れでならない」とおっしゃっていると書かれています。

この「憐れ」という字ですが、左側はりっしんべんといい、心が立つことを表しています。

右側のつくりは「米」のしたに「舛」で、ゆらめきながら灯り続いている火を表しています。

心が立って、ゆらめき続けている火のような状態が「憐れ」という字の意味です。

つまり、一方的な願いが続いていることを言い表しています。

一方的な願いがかけ続けられているから私を憐れんでくださっているということです。

仏さまは「どんどん遠ざかっていくあなたを何とかせずにはおれない」とおっしゃいます。

親鸞聖人が明らかにしてくださったお念仏の仏教のスタート地点はまさにここです。

良からぬ方角に向かっていく人間を救ってお浄土へ迎える。

これが仏さまの根本の願い(本願)なのです。

仏さまが一方的に願いをかけ続けてくださっているのです。

本願寺派の僧侶育成体系創出について

浄土真宗本願寺派が平成27年から推進している宗門総合振興計画の重点項目に「僧侶の本分の励行」が設定されています。

先日、本願寺鹿児島別院で催された「公聴会」の中で、そのことについての説明がありました。

これを具体的に協議検討するために立ち上げられた「僧侶育成体系プロジェクト委員会」(学識経験者・宗派研修機関代表、坊守や婦人会の代表らで構成)において、「僧侶や寺院が社会から求められていることに応えなければ、法灯の継承は困難になる。

それには、社会からの視点を踏まえた僧侶や教師などの新たな育成体系の創出が必要だ」として、今年の2月に「育成体系創出にかかる具体策」がまとめられ、次のような指針が示されました。

その中の僧侶育成に関しては、

僧侶になるにあたっての各種研修会は、次の要件を観たし、僧侶としての自覚を促す育成体系を創出する。

  1. 仏道及び親鸞聖人のご苦労に学び、宗法第22条の規定による「得度誓約」とご親教「念仏者の生き方」に照らし、自己の生き方を問う習慣が芽生えるものとする。
  2. 僧侶として必要な知識・技能を習得できるものとする。

と、述べられています。

では、新たな育成体系で何がどう変わるのかというと、僧侶資格となる「得度」では2つの事柄が改められています。

1つめは、得度の前段階です。

本願寺派では、得度にあたっては、11日間の「得度習礼」を受講した上で得度式を受式してきました。

そして、これまでこの得度習礼を受講するための資格として、「得度考査」に合格することが必要でしたが。

得度考査は、全国各地の教務所で随時実施され、筆記試験と読経の実技、面接があり、100点満点で60点以上なら「合格」となります。

ただし、本願寺派の宗門校の卒業生や、中央仏教学院所管の通信教育専修課程を履修して卒業試験に合格した者は、得度考査は免除されていました。

新たに育成体系では、この免除制度が廃止され、呼称も得度考査から「得度試験」に改めて、得度を申請する者は、全員が試験を受けて合格することが必要になります。

2つめは、得度習礼期間中に天台宗総本山延暦寺の研修道場・居士林での修行研修が義務付けられることです。

現在、得度習礼は京都市西教区の本願寺西山別院で10泊11日の研修を行っていますが、このうちの1泊2日を比叡山での研修に充てるというのです。

その理由として、「比叡山研修は、親鸞聖人の比叡山でのご苦労を体感すること」が目的として示されています。

この比叡山研修には「意識づけという意味では面白い」という肯定的な見方が聞かれる反面、「得度習礼は学ばないといけないことが多くて、ただでさえ分刻みのスケジュールなのに、1泊2日も比叡山に行く意味があるのか」といった否定的な意見も聞かれるそうです。

公聴会の中で、「本来得度習礼を受講する者は、事前に浄土真宗についての基礎的な知識を十分に学び、お経についてもきちんと読めるようになった上で臨むべきだが、理解度についての試験を行うと合格点に達しないものが半数以上いたり、お経もほとんど読めなかったりするなど、受講者の資質は憂うべき状況にある。

特に、得度考査を免除された者において、そのような傾向が顕著に見られる」とのことでした。

それを聞いて唖然とすると同時に、今回得度考査の免除制度が廃止され、得度試験になることは首肯できました。

けれども、比叡山研修については、いくつかの点で疑問を感じました。

1つめは、「親鸞聖人の比叡山でのご苦労を体感する」ということですが、果たして1泊2日でそれが可能かということです。

周知の通り、親鸞聖人は比叡山で9歳から29歳まで20年もの間、真摯に学問と厳しい修行に励まれました。

そのご苦労をわずか1泊2日で体感できるとは到底思えません。

かつて、研修会講師養成実習で、宇治の黄檗山萬福寺に1泊2日の体験研修に行ったことがあります。

座禅も組ませていただいたりしましたが、わずか2日間では座禅体験程度のことしか体感できませんでした。

毎年夏休み期間に2日間、中学生や高校生が保育園や子ども園に職場体験に来ますが、おそらくあれと似たようなことしか体感できなかったのではないかと思っています。

というのは、中高生があとから感想文を送ってくれるのですが、それを読むと、自分が感じたこととあまり変わらないような事柄が記載されているからです。

2つめは、親鸞聖人は比叡山では無明の闇がはれることはなく、ついに山を降りて法然聖人のもとに足を運ばれ、ようやく信心決定されました。

したがって、比叡山の研修施設で1泊2日の修行体験をするよりも、得度に際してそのご苦労を偲ぶのであれば、先ずは得度をなさった青蓮院、次に比叡山では聖人が修行に勤しまれたと伝えられる常行三昧堂、そして最後に信心決定された吉水の草庵(安養寺)を訪ねるのが効果的であるように思われます。

これだと、1日で回ることが可能です。

なお、常行三昧堂は日頃は閉ざされていますが、親鸞聖人の750回大遠忌法要が営まれた年は、比叡山のご配慮で特別に中を見せて頂くことができました。

したがって、また得度に際して拝観させていただけるよう交渉してみてはいかがかと思います。

いま、宗門は激変する社会の求めに対して、この他にも教師教修や布教使課程についても見直しをするなど、いろいろな改革案を検討し、資格取得のハードルを上げることで僧侶の資質を高めようとしています。

この他、住職向けの寺院運営や活性化に関する研修なども検討しているそうです。

かつて得度習礼を受けた時、僧侶の本分として「勉学・布教を怠らないこと」という言葉を心に刻みました。

未だにその言葉を覚えているのは、何かと多忙な毎日ですが、それが真宗僧侶として自分が決して見失ってはならないことだと自覚しているからです。

また、卒論の口頭試問の際、副審の先生からの質問に全て答え終わった後、それまで一言も発することのなかった主審の指導教授が「君の書いた、この内容でいい。

あとは、これをどう実践していくか。

それが君のこれからの課題だ」と言われました。

卒論では、浄土真宗の救いについて述べたのですが、恩師から「浄土真宗の救いとはどのようなことか、それをご門徒の方々にいかに分かりやすく伝えていくか。

それが君の課題だ」と、新たな課題を出されたわけです。

以来、試行錯誤を重ねながら、そのことに努めています。

与えられた課題にきちんと応えられているか否か。

既に先生はお浄土に往ってしまわれたので、その是非はいずれお浄土で聞かせていただくということになりそうです。

「よき人」との出会が一生を左右することを思うと、僧侶の育成体系の中に、「指導者の人材育成」も加えるべきではないか…、と感じることです。

 

平成30年11月法話『愚痴の出る口から お念仏がこぼれる』(中期)

仏教では、すべての「苦」は無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説いています。

「煩悩」とは身を煩わし心を悩ますもので、その数え方はいろいろあります。

除夜の鐘でよく知られている百八、あるいは八万四千、また集約すれば三つにおさまるともいわれます。

この中の三つが、人間の持つ根本煩悩と定義される「三毒の煩悩」で、具体的には「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)」です。

「貪欲」とは欲望をいだきそれに執着すること、「瞋恚」とは自分の気にいらないことに対し憎み怒ること、「愚痴」とは道理に無知であることです。

大乗の経典(『涅槃経』)には、この三つが病にたとえられ、その治癒法が

「貪欲の病には骨相観を、瞋恚の病には慈悲観を、愚痴の病には縁起観を教える」

と、説かれています。

「愛欲におぼれている者には、その対象がどれほど魅力的に見えたとしても、結局最終的には骨になってしまうことを観察させる。

怒りの心に満ちている者には、なぜ腹立たしいのかをよく見きわめさせて慈悲の心を回復させる。

自分の知っていること以外は何も知らないのに、世の中のすべてのことが自分には分かっていると錯覚して、自己中心的な見方しかできない愚か者に対しては「すべての存在はさまざまな条件(縁)によって生じるという縁起の理法を観察させる」と。

また、こられの煩悩を消し去るものが「智慧」であると説かれます。

仏教では、 この智慧を「忍」という字で説いています。

『仏説観無量寿経』において、韋提希夫人が「無生法忍」を得たということが述べられています。

この「忍」とは「認可決定」という意味で、はっきりと認めていく、勝解(しょうげ)という、すぐれた理解をするという意味だという説明がなされています。

そのような意味で、「忍」とは「認める」ということだといわれています。

けれども、そうであれば「無生法忍」ではなく「無生法認」とすれば良いように思われるのですが、あえてそこに「忍」という字が用いられているところに、何らかの意味があるのだと考えられます。

では、それはどのような意味かというと、ギリシャ人の「智慧」に対する理解がこの「忍」の意味に通じるものがあるように感じられます。

ギリシャ人は「智慧」を「情熱」という言葉で表していたといわれます。

この場合の智慧とは、知識をたくさん持っていることではなく、情熱を持っていることだというのです。

そしてこの情熱とは、何があっても何かを最後までやり遂げるということではなく、それがたとえどんなに辛いことであったとしても、それが事実であれば事実として受け止め、その事実を生きていくという、勇気としての情熱として理解していたと伝えられています。

これと同じように、仏教における智慧も、うまくいってもいかなくても、自分の人生の事実をすべて引き受けて、その事実を生きていく勇気のことなのです。

これに対して、愚痴というのは、何も知らないということではなく、事実を事実として受け止めて引き受けていくことのできない弱さのことをいいます。

どれほど愚痴をこぼしてみても、その事実が変わるということはありません。

にもかかわらず、自分の思い通りにならないことの原因を他に責任転嫁したり、世間を呪ったりするばかりで、不都合な事実をどこまでも受け入れようとしないあり方にとらわれてしまうのです。

一方、どれほどその事実が自分にとって受け入れがたいことであったとしても、私は私の人生の事実をこの身にしっかりと受け止めていく勇気を智慧といい、また忍という言葉で表しているのです。

とはいえ、やはり私たちは、いつまでも健康で、経済的な不安を感じることもなく、家族をはじめ大切な友だちと日々楽しい生活を過ごしたいと思っているのですが、それらにほころびが生じ、思い通りにならない現実に直面すると、つい愚痴の言葉があふれ出てきます。

一つしかない口なのですから、他をそしったり世の中を呪ったりするような言葉よりも、生かされて生きているこの身の幸せを喜んだり、私を支えてくださっている周りの方々への感謝の言葉を口にすることができれば良いのですが、なかなか難しいものです。

親鸞聖人は、この仏さまは本来「色もなく形もなく、言葉で言い表すことも想像することもできない」存在であるが故に、私たちすべての煩悩を兼ね備えている凡夫にはとうてい理解し得ない。

だからこそ、仏さまの側からその存在を私たちに知らしめるために、自ら「南無阿弥陀仏」と名を名のり、私の称える念仏の声となって躍動しておられるのだ、と教えておられます。

まさに、愚痴しか出ない私の口から、阿弥陀仏という仏さまは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、念仏の声となってこぼれ出て、常に私を導いていてくださる仏さまなのです。

 

ひらかれていた道といのち(前期)ブッダ(仏陀)の意味は「心理=ありのまま」

ご講師:高田 未明さん(中央仏教学院講師)

今日は、仏教の入門といいましょうか、基本的なことからお話させていただきます。

鎌倉時代に親鸞聖人(しんらんしょうにん)が明らかにされたのはお念仏の仏教です。

仏教には座禅や瞑想による修行をするもの、苦行や荒行を重ねて悟りに至ろうとするものなど、修業をして自分の方から仏さまの境地に近づいていこうとするものもあります。

自分から歩みを進めて押し開いていく実践方法を押し開きのドアと例えます。

常識や道徳の捉え方に似ている部分があるように思います。

一方で、親鸞聖人が明らかにされた仏教は「南無阿弥陀仏」を称えるお念仏の仏教です。

こちらは引き開きのドアのようなもので、それもむしろ向こうからドアを開けて待っていてくださるのです。

たとえば親子関係に似ています。

子どもは親にそっぽを向いていても親はずっと子どもの方を見続けているという、一方的な親の救いのようなものです。

これらは自ら歩いていくのと船などの乗り物に乗せられていくのと、進み方や向かい方に違いはありますが、行き先は全てインドの言葉でいう「ブッダ」の世界です。

漢字にあてはめて「仏陀」と表示しています。

もともとはインドの言葉でブッダという言葉が最初にあるのです。

ブッダの意味するものは「本当」や「真理」です。

真理とは「ありのまま」と理解していただければと思います。

私たちの世界ではものを見るときに、時と場合や自分の都合などで判断が違います。

長い短い、大きい小さい、損だ得だ、好きだ嫌いだなど、条件によって変わります。

実は私たちはありのままを見ているようで実は見ていないのです。

仏陀はありのままの様子がありのままに見えています。

真理に目覚めたお方です。

そんな仏(陀)にならせてもらうという教えだから仏教と言います、ほかでもない私が導かれて真理に目覚めた人にならせてもらう、それが究極の目的であり、行き先です。

 

「共命鳥」と「一卵性双生児」

鹿児島県内の浄土真宗のお寺を母体とする保育園、幼稚園、認定こども園が加盟する鹿児島教区保育連盟という組織があります。

その鹿児島教区保育連盟が監修、制作した子ども用の教材に、子どもたち自らが自分の手で作り上げる「ミニ仏壇」があります。

今、自宅にお仏壇のある家庭がほぼ無くなってきた中で、子どもたちは園生活の中で手を合わす機会はあっても、一番身近な「家庭」や「家族」という環境の中で合掌の心が育まれることがなかなか少ないように思います。

手を合わすということは、決して習い事などというものではなく、多くのお陰によって「生かされているいのちにめざめる」、まさに人間としての土台を育む乳幼児期の子どもにとって大切な育ちの一つではないでしょうか。

また子どもたちの合掌礼拝する姿を通じて、若いお父さんやお母さんも我が子に導かれて子どもと共に敬いの心を育み、毎日の生活の中に手を合わす環境をまずは身近な家庭から、という願いのもとに制作されたのがこの教材です。

 

このミニ仏壇に、極楽浄土にいるといわれる六つの鳥が登場してきます。

これらの鳥は仏さまの教えを説き弘めるために、それぞれに物語を持っています。

その一つに「共命鳥(ぐみょうちょう)」と呼ばれる鳥がいます。

上の画像でいうと左上にいる鳥です。

この鳥は「一身双頭」という不思議な鳥で、胴体は一つですが頭が二つあります。

それぞれに個性や考え方を持っていますが、胴体は一つで命を共にしているところから共命鳥と呼ばれています。

この鳥の物語として、ある時一方の鳥が眠っている間に、もう片方の鳥は相手に黙っておいしい木の実を自分だけ食べてしまいました。

それに気付いたもう一方の鳥は腹を立てもう片方の鳥を憎み、やがて「こいつさえいなければ自分も自由に飛び回ったり思い通りに生きることができるのに」という感情を持ち始めます。

そしてとうとうある時、片方の鳥に毒の実を食べさせて殺そうとします。

けれども、胴体は同じですので結局はその毒が自分にもまわり、どちらも息絶えてしまうというのがこの共命鳥の持つ物語です。

もちろんこの鳥が実在しているものではありませんが、いる・いないということではなく、大切なことは仏さまが共命鳥を通して何を私たちに伝えたいかを伺うことです。

ふり返ってたずねてみると、私たちの社会でも共命鳥と似たような境遇に出会うことも少なくはないような気がします。

自分にとって都合の悪い人、気にくわない人。

意見が違ったり、考え方が合わなかったり、そのことで相手の全てを否定し、排除してしまいかねないのが自分であります。

また、自分勝手な思いを押し通すことは、自らを傷つけ、他人をも傷つけてしまうことになりかねません。

共命鳥はまさにそのような自己中心的な思いで生きている私の姿を映し出しているようでもあります。

ですが、この共命鳥もそのような過程を経て今は極楽浄土の世界で、お互いを労り、慈しみ、『他を滅ぼす道は己を滅ぼす道。

他を生かす道は己を生かす道』と美しい声を響かせながら、仲良くする姿の象徴としてお浄土の中に描かれています。

このミニ仏壇を教材として子どもたちは、制作する過程の中で担任の先生からお浄土に舞う鳥たちの物語を聞きながら仏さまの教えにふれ、お友だちと仲良くする大切さや優しい心を育んでもらいたいというのが、この教材のねらいでもあります。

来年小学生になる我が家の双子の娘も、通っているこども園でこのミニ仏壇を制作し、それぞれ嬉しそうに「私のお仏壇」を大事に抱きしめながら家に帰ってきました。

早速家のお仏壇の前に二つ並べて飾り、鐘を何度も何度も打ち鳴らしながらはりきって手を合わせて「なもあみだぶつ」とお念仏している我が子の後ろ姿を目を細めて眺めることでした。

一卵性双生児の双子として生まれてきた二人の娘。

母親の胎内で一つの同じ卵の中で、同じ胎盤を共有しながらの妊娠期間でありました。

片方に栄養が偏りすぎないか、成長に差が生じていないかなど、出産を迎えるまで日々心配は絶えませんでしたが、そんな二人の姿がまるでお浄土の共命鳥のように、私の目には重なって見えるのでした。

このミニ仏壇を作ってから、二人の姿に変化が見られるようになりました。

まだまだ5歳の幼い子どもですので、しょっちゅう二人で言い争ったり取り合いをしたり、ケンカも絶えません。

けれども、ふと共命鳥の鳥を二人に思いださせてあげると、お互い思いだしたように「あっ」と顔を見合わせ、そうだったそうだったと自然と穏やかな心に戻り、譲り合いながらまた二人で仲良く遊ぶ姿が見られました。

二人とも双子としての意識は既にありますので、共命鳥の物語を聞いて何かしらそれぞれの心に響くものがあったのでしょう。

言わば母親の胎内にいる時から同じ胎盤を共にして命を生きてきたのですから。

いつまでこの声かけが二人の心に届くかは分かりませんが、そんな二人の姿から、私もまた仏さまの心に触れさせていただいているようです。

今日もまたいつものように双子の共命鳥がドタバタとやってきては、またいつのまにか緩やかに羽ばたいていく。

仏さまの教えはどこか遠い世界の物語ではなく、いつも私の側で私に語りかけてくれているようです。