投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

智慧光 光につつまれたからこそ 気づけることがある

光に包まれるとは、どのような状況でしょうか、私自身、表現するのが難しい言葉だと思います。たとえば、晴れた日に外に出ると、お日さまの光に照らされます。ある意味光に包まれているということになるのかもしれません。それはそれで有り難いことだと思いますが、ここで示すところの光「智慧光」は、状況的には逆の状態かもしれません。真っ暗な状態が先にあり、そこに差し込んでくるような光ではないかと思います。

2024年4月28日、ある著名な詩人が亡くなられました。星野富弘さんという方で78歳でした。星野さんは事故によって首から下が麻痺してしまった方ですが、その方が詠まれた詩に次のようなものがあります。

 

「神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたらそんな日が本当に来るような気がした」

 

星野さんは24歳の時、ほぼ動けない状態になったそうです。それまで体育教師として一生懸命だったそうですが、授業中の不慮の事故で頸椎を損傷してしまいます。寝たきりになった星野さんは人生に絶望したと言います。それまで思い描いていた人生のすべてが崩れさっていくような思いだったと言います。その辛さから色んな人にきつく当たってしまったと言います。つきっきりで世話をしてくれる母にさえ、怒りを爆発させてしまった事もあったと言います。

そんな中で転機が訪れます。それは、病室で窓の外をぼんやり眺めていた時、それまで気にもとめていなかった野花が目に入った瞬間だと言います。誰に見られるわけでもなく、決して良い環境とは言えない日当たりの悪い場所で、ただ自分の花を咲かせる事だけに一生懸命に生きている姿に美しさを感じたと言います。自分もこの花のように生きていきたいと、強く思ったそうです。自分にもまだ生きる意味がある、出来ることがある、そう思えるようになったといいます。

それから星野さんは、その花を絵にしようと思ったそうです。自分の姿を重ねて絵に表現しようとした。もちろん体は動かせないので、口に筆をくわえて描いたそうです。長い月日をかけてようやく一枚の絵が完成する、そこに、自分の今の気持ちを言葉で添えたそうです。初めてそれが完成した時、出来たのは一枚の絵というより自分にとって生きる希望だったと言います。そこから星野さんは絵や詩を書きながら自分の人生を歩んでいかれました。

 

煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり 【浄土真宗聖典(注釈版)P.595】

 

浄土真宗で大切に頂いているお言葉の1つですが、本当の光(仏様のはたらき)というものは、その人にとって最も辛い状況の中で知らされるのではないかと教えられるような思いです。星野さんにとって寝たきりということは確かに辛い現実だったかもしれませんが、たまたま出会った野花によって、辛いかもしれないけれども決して否定されるものではないことを知らされてくる。これも自分の人生と引き受け、物事の良し悪しを超えた豊かな人生に巡り合ったのではないかと味合わせて頂く思いです。そして、そのような星野さんの生き方が、周りの人を勇気づけ、なにより星野さんの人生を星野さんらしく最後まで生き抜く力になっていったのではないかと味わわせて頂く思いです。

合 掌

 

智慧光 光につつまれたからこそ 気づけることがある

昨年は叔父をはじめ近しい方との別れの多い一年でありました。

叔父の往生より時が経ち、初七日法要、四十九日法要を迎え、気が付けば半年が過ぎ行きました。月命日や日々のふとした時に叔父との思い出を思い起こし、「あんなことがあったな、こんなこともあったな」と懐かしさとともに寂しさも感じることでありました。

しかしある時、その記憶の中に浮かんでくるのは叔父だけでなく、同じく往生していった父や祖母、また元気に暮らしている母や妹、ご門徒の方であったりと多くの方も出てくることに気づいた時、どれだけ多くの方に尊いご縁をいただいてきたか、またこれからもいただいていくか、考えさせられることでありました。

一人で生きていくことのできない我が身であるにもかかわらず、そのことに気づくことのできない、気づこうとしない我が身のありようであり、そんな独りよがりの我が身を願いとしてはたらいてくださる阿弥陀様の願いに照らされ、つつまれながらの命をいただく事であったなとありがたい「気づきのご縁」を叔父が結んでくださったことでありました。

日々、おかげさまの日暮らしを送らせていただきましょう。

今年も一期一会の日々が始まる 令和7年1月法話

新しい年が始まりました。今日という日は誰も歩んだことがない今日一日です。いつ・どこで・どういうご縁で縁つきてもおかしくないこの命が今、生かされていることが不思議なことであり、有り難いことであります。だからこそ今生かされてあることを改めて喜ばせていただくことです。

一期一会(いちごいちえ)とは、一期は仏教の言葉で人間が生まれてから死ぬまでの一生涯のことを意味します。ある辞書には一期一会とは、一生涯にただ一度会うかどうかわからぬほどの縁。出会いを大切にすることのたとえ。とあります。

千利休の弟子である山上宗二の本に「一期に一度の会」とあり、茶道でよく使われる言葉です。「この茶会と全く同じ茶会を二度と開くことはできない。だから茶会は常に人生で一度きりのものと心得て、相手に対して精一杯の誠意を尽くさなければならない」と茶道の心得を表した言葉であります。

親鸞聖人の祥月命日は1月16日です。京都の本願寺では親鸞聖人のご恩に報いる法要である御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)が1月9日から16日まで勤まり、全国から僧侶・門信徒の方々等多くの方々がお参りされます。

その京都の御正忌報恩講の前後に全国各地のお寺・集落・家々において報恩講のお勤めが勤まります。俳句で報恩講は冬の季語であると聞かせていただきました。それくらい多くの方々にとっても親しみのある懐かしい言葉ではないでしょうか。

私がお預かりしているお寺では、10月から12月にかけてご門徒の家々にお参りする在家報恩講が勤まります。以前、在家報恩講である家をお参りしたときのことを思い出します。世話役さんに案内されて一軒いっけんお参りしていると、いつもはお参りしていない家へと案内していただきました。その家の方は福岡に住んでおられるのですが、報恩講のお参りがあると聞いてそのご縁にあわせて帰ってきてくださったのです。その方の年齢をたずねると、90歳でした。福岡から新幹線、そしてバスを使ってしかも1人で帰ってこられたのです。恐らく、その方のお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんがいつも報恩講のお参りを大切に大事にされていたその様子を小さい時から見ておられたのではないかと思うのです。だからこそまさに一期一会のご縁と頂き、報恩講にあわせて帰ってこられたと思うのです。そのお心に頭が下がる思いがしたことです。ご先祖の方々の報恩講そして親鸞聖人を大切に思う心がずっと連綿と受け継がれていることに心温まるおもいがしたことです。そのお姿を通して、1回いっかいのお参りのご縁を大切に大事にさせていただかなければ、もったいないことだと改めて感じたことです。今年も一期一会の日々が始まったことです。

 

 

年の暮れ 何気ない日常にこそ幸せがある

以前、夕方のニュースに、ある小学生の女の子が映っていました。その子は、重い心臓病を患い、補助人工心臓というもので命をつなぎ、臓器提供を待っていた女の子でした。家族や応援する方々の街頭での懸命な募金活動によって、なんとか手術費用は集まったようです。そして、ようやくドナーとのご縁に恵まれ、心臓移植が叶いました。手術が終わり、少し落ち着いたころに「今どんな気持ちですか?」と聞かれたとき、女の子はこう答えました。

 

「手術が終わったときは、嬉しくていっぱい泣きました。心臓の鼓動ってこんなにすごいんだな。心臓ってこんなに温かいんだなって、久しぶりに思いました。」

 

私は、この女の子の答えが忘れられません。恥ずかしながら、私は自分の心臓に対して、温かいと思ったことは一度もありませんでした。それは私がこの世に生まれてこの方、ずっと私に寄り添い、私を生かしてくれている存在であるからこそなのかもしれません。いわば、当たり前になっているわけです。しかし、この女の子にとって、それは当たり前のことではありませんでした。だからこそ、心臓が脈を打ってくれている、その有り難さに気付けたんだろうと思います。

 

これは何も、自分の身体だけに当てはまる話ではありません。私の身の周りに、当たり前に存在しているものなど何一つないはずです。幸せは外に探すものではないんだろうと、改めて気付かされました。内にある気付きこそが、本当の幸せへの第一歩ではないでしょうか。

「年の暮れ 何気ない日常にこそ幸せがある」 今ここに生きている 生かされている

誰にでも何気ない日常には幸せがあります。例えば、スヤスヤと眠る子どもの寝顔を見た時、日々家族が作ってくれるあたたかいご飯、誰かからかけられた優しい言葉等など、それなのに何気なく過ごしているとその一つひとつを当たり前のこととして感動もなく過ごしているのが私たちではないでしょうか。しかしよくよく考えてみて、当たり前ではなかったと気づかされる時、私の日常の彩りが深まります。さらには、いのちの源に思いを馳せますと、当たり前ではない究極なことは、今生きているということ、私が今ここに存在しているということなのかもしれません。

祖父の言葉をふと思い出します。『朝、目が覚めて鳥の鳴き声を聞くと 今日もいのちいただいたなぁ 有り難かな 不思議じゃな』と。

その頃私は20代前半であったせいか、言っていることは分かりますが、もうひとつピンとこないというか、そこまで感じることも意味を味わうこともできませんでしたが、あれから何十年の齢を重ねてきて、今ほんのの少しだけその言葉の深さに気づかされます。

たしかに、眠っている時にはすべてを投げ捨てて眠っています。自分の心臓ながら自分で動かしているわけでもない。肺を自分で動かしているわけでもない。眠っている時は特におまかせです。しかし目がさめてみたら、気づいたら朝。まさしく生きているのではなく生かされてあることの不思議さに気づかされます。私が分かろうとも分からなくとも、大いなるいのちによって支えられ、縁によって生かされていることは紛れもない真実です。そこに気づかせていただきますと、生きているということ自体がよろこびであり、いのちは無条件に尊いと言えましょう。

そう、“私は今ここに生きている、生かされている”

驕りは人間を滅ぼし 争いは世界を滅ぼす

私は本当に哀れです。

鼻から鼻毛が出ていても、鏡を見たり他人から教えてもらったりしないと気づきません。自分のことは私が一番分かっているようで、分かっていないのが人間です。

それなのに自分の幸せの為なら他人を陥れたり、傷つけたりしてしまいます。自分は言われたくないのに平気でひどい言葉を口にもします。

 

他人の気持ちなんか気にしていないから“おごる”んでしょうね。どんなに素敵な人であっても、魔が差せば自己中心に振る舞います。

また、他人のことばかり気にしてしまうから“おごる”んでしょうね。他人と比べないと、自分の幸福感が感じられない哀れな者です。

 

人それぞれ考え方や価値観が違います。だから対立するものです。この違いが大きくなったのが戦争なのかもしれません。

争いのほとんどは信仰や思想、文化や価値観の対立によるものです。戦争や内紛が後を絶ちません。他国や他組織と自分たちを比べるからでしょうね。宗教は命の行く末や命の存在と向き合うものです。しかし、ときにこの宗教が簡単に人を殺します。生まれたての赤ちゃんを爆弾で平気で殺すのが宗教です。とても悲しくてしょうがありません。

 

ひとの心は誰にも見えません。だからこそ、見えるものよりも大切にしなければなりません。自分のすがたを教えてくれる鏡が必要です。