私が小さい頃の話ですが、よく服の前後を逆に着てしまい親から注意をされていました。なぜそうしてしまうのか振り返っても思い出せませんが、おそらく逆であることに全く気付いていなかったのだと思います。しかしながら周りの人にとっては、とても目立って映っていたのではないかと思います。
もう服を逆に着てしまうことはありませんが、自分自身の姿というのは、鏡でもない限り見えづらく、今でも気付いていないだけで似たようなことをしてしまっているのではないかと心配になります。表題の言葉でもありますが、どこまでいっても自己の過失というのは、見えにくいのかもしれません。
ここ1年の間、コロナ禍を通して色々なニュースが話題になりました。全国規模の緊急事態宣言をはじめ、誰もが知る有名芸能人の訃報、特別定額給付金10万円の支給、東京五輪の延期など驚くことばかりでした。また、先を見通せない不安からか、「マスク警察」「自粛警察」といった言葉に象徴されるような同調圧力を行使するあり方に対して、戦々恐々となったことも記憶に新しいのではないかと思います。
先日ある研修会で「人間は正しくなった時、最も手に負えなくなる」という言葉を耳にしました。正しいもの、間違いないものを掴んでいくことは、一見有り難いことのように思います。ですが、それによって他に目がいかなくなってしまうと、自身の掲げる正義にそぐわない者に対して、どこまでも冷たく、残酷になってしまうということでした。
なかなか終息する気配のないコロナ禍の中で、感染を広げないために行動することは確かに大事だと思います。けれども、それによって偏見や差別が生まれてしまった可能性もあり、私も無自覚的にそれに加担していた、もしくはしているのではないかと心配になったりします。
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる(註釈版 P.617)
親鸞聖人のお遺し下さったご和讃です。「修善も雑毒なるゆゑに」つまり、「自らが修めた善行にも煩悩の毒が混じっている」とは、とても厳しい言葉だと思います。相手のため、家族のため、社会のためと頑張ることは、誰しも経験があるのではないかと思います。それ自体とても有り難く、素晴らしいことだと思います。ただ気を付けなければならないことは、理想を掲げ頑張っている時ほど、周りに目が行ってしまい、自分自身を見失ってしまう可能性があるということではないかと思います。善(理想)も毒に成りえるという言葉は、親鸞聖人の徹底した深い自己洞察・自己凝視なのかもしれません、忘れないようにしたいと思います。
社会貢献や社会的マイノリティの人々の為の支援活動などが盛んに叫ばれています。活動を始める事や活動に関わること自体、とても大切であり必要なことだと思います。ですが、正しい知識や深い自己凝視がなければ、助けるための活動が、意に反して排除する活動になってしまう危険性があるようになるかもしれません。私自身そのことに気を付けながら、日々の寺院活動に取り組んで行きたいと思う今日この頃です。