確かに、他人の過ちは見やすく、おのれの過ちは見難いものです。そのため、しばしば「人のふり見て我がふり直せ」ということが言われます。これは、「他人の行為の善悪を見て、自分の行為を反省し改めよ」ということですから、誰にでも理解し受け入れることができます。
日頃、私たちは自分の顔や姿を見るときは鏡の前に立ちます。それと同じように、自分の心の内や行いを見るときには、私自身を照らすものが必要になります。ここでは、その鏡の役割を担うものが「人のふり」つまり「他人の行為の善悪」ということになります。
そこで、私たちはしばしば他人の行為に目を向けることになるのですが、単に周囲の人を見まわしても、それぞれにその人のなりの生き方があるため、そのすべてがそのまま私の生き方の参考になるというわけではありません。けれども、今日の社会ではテレビやインターネットを通じて様々な世界のありさまを目にすることができるので、そういったことの中から教訓的なことを学ぼうとすると、その題材に事欠くことはありません。
ところが、放映されているものの中に善悪を見て、それを自身の言動に照らし合わせて反省し改めようとする人はほとんどいないのではないかと思われます。また、映画やドラマ、ドキュメンタリーなどを見て非常に感激したり、あるいは講演などを聞いていかに感動したりしたとしても、それによって自分の行為が改まるということはありません。それは、どれほど素晴らしい物語や出来事であったとしても、見たり聞いたりしている私が、どこまでもそれを一般論として客観的に眺めているに過ぎないからです。そうすると、私が自らをあらためるためには、そこに一つの縁が加わる必要のあることが考えられます。
一般に、私たちは周囲の人から「影響を受ける」ということがあります。その場合、良い影響と悪い影響の二つがあります。私たちは、無人島で一人暮らしをしているわけではなく、多くの人々が形成している社会においては、常に周囲の人々と何らかの関わりを持ちながら生きています。そのため、「自分にとって良いと思うこと」を無意識のうちに見習うようになりがちです。ところが、「自分にとって良い」と思っていることが、果たして本当に正しいことかどうかとなると、その是非は極めて曖昧だといわざるを得ません。
なぜなら、私たちは欲望のままに生きている凡人ですから、正しく善い方向よりも、悪い方向を見て「我がふり」を直すことの方が圧倒的に多いのです。つまり、悪影響を受けながら生きているのが、私の身の事実だということになります。そこで、改めて真の意味で自分の心や行いを映し出す鏡とは何かが問われることになります。この場合、大切なことは、自分にとって都合の良い人の姿を見ようとすることではなく、自分の心に響く教えこそが、自身を照らす鏡になるのだということを知ることです。
親鸞聖人の教えに、そのことを尋ねると、例えば私たちは臨終のあり方を問題にすることがあります。そして、亡くなられた方の顔を見て、安らかな顔をしておられると、そのことを讃えるようなお悔やみの言葉を口にする一方、事故などで悲惨な臨終を迎えられた場合は、悲壮な態度で臨んだリします。
このような私たちのあり方に対して、親鸞聖人は「臨終の善悪を問題にするべきではない」と諭しておられます。また、お釈迦さまは、この世は無常だと説いておられますが、それは自身を含め人にいったい何が起こるのか誰も知ることはできないということです。そのため、日頃善人だと称賛されている人が非業の死を遂げることもあれば、悪事に手を染め評判のよくなかった人が穏やかに死んでいくこともあります。したがって、死に際の善し悪しで、その人が仏になり得るかどうかが決まるということなどないのです。大事なことは、その人が日頃どれだけ真剣に仏法を聴いていたかどうかによるのです。だからこそ、親鸞聖人は「いま信心を得て、必ず仏になるべき身に定まることが大切だ」と繰り返し説かれるのです。
また、私たち人間社会には、なかなか解消することが難しい差別の構造があります。そのため日本国憲法には、
すべて国民は、法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
と、定めています。にも拘わらず、次々と新たな差別が生み出され、真の意味での平等はなかなか実現していません。
親鸞聖人の時代には、念仏者がいわれのない差別を受けました。何度も弾圧をされ、親鸞聖人も何の罪もなくして流罪になりました。そのような状況の中で、親鸞聖人は差別する側の人間こそが、痛ましく哀れな状態に置かれているのだとみなされます。なぜなら、悪道に堕するのは、差別している人々だからです。
そこで親鸞聖人は、念仏者を弾圧している人々を憎んだり呪ったりするのではなく、哀れみ不憫に思い、その人々もやがて念仏を称えることができるようになることを祈ってあげなさいと諭しておられます。依然として、様々な差別事象の消えない現代においても、親鸞聖人のこの教えは私たちの鏡となり得ます。なぜなら、差別している人たちに、それが非道であることを気づかせるのは、ただ差別されている側の人間としての暖かさにあるといえるからです。
改めて「他人の過ちは見やすく、おのれの過ちは見難い」と言えます。だからこそ、自分を見つめさせる鏡を持つことが大切なのですが、その鏡は一般に言われる「他人のふり」ではなく、いつの時代にあっても、いかなる人々においても、真実と言いうる「仏法」だと言えます。
善導大師は、「仏さまの教えは、鏡のようなものだ」とはっきり言いきっておられます。私たちは、仏さまの教えを聴くことによって、自分の姿を省みることができるのですが、その鏡に映し出される私は、なんとも自己中心的でむさぼりや怒り、愚かさに流されるいたましい姿です。まさに親鸞聖人が「恥ずべし、いたむべし」と悲嘆されるような姿ですが、そのことなくしては「おのれの過ちを見ること」ができないのが、私の身の事実だといえます。