2021年4月法話 『他人の過ちは見やすくおのれの過ちは見難い』(後期)

昭和57年頃の漫才(まんざい)ブームの時でしたか、「しつこく罵(ののし)る他人の失敗 笑って誤魔化(ごまか)す自分の失敗」 というフレーズがあり、思わず、ほくそ笑んだことがあります。「その通りだな」と頷くところがあったからです。

確かに、相手の失敗や過ちには批判の眼差しをむける私ですが、こと、自分のことになると「しかたがなかった」「やむを得なかった」と安易に自己弁護をし、笑って誤魔化そうとしています。 まったくもって、そこには「自分が可愛い」との思いから抜け出すことができない「私」、また、そのことを問うことから逃げようとしている「私」がいます。まさしく、「他人の過ちは 見やすく おのれ の過ちは 見難い」との法語は、そのことを言い当てているようです。

こんな話を聞きました。幼稚園の参観日での出来事です。お母さんが教室に入ると、壁に子どもたちの書いたお母さんの似顔絵が貼られていたそうです。そのお母さんは、自分の子どもの絵はどれだろう と探し、見つけた途端に愕然(がくぜん)としたのです。なんと、お母さんの似顔絵は、眉毛と目が吊り上がり、怖い怒った顔に描かれていたのです。お母さんは、恥ずかしくなり、そそくさと家に戻ったというのです。 そして、子どもが帰ってくると、「なんで、あんな絵を描いたの。お母さんはいつも怒っているわけではないでしょう」と、また怒ってしまったのです。

子どもには、「いつも素直になりなさい」と言っているので、子どもは素直にお母さんの姿を書いたら怒られてしまったのです。このように、私たちは他人の悪いところ、過ちにはよく気が付くのですが、自分の悪いこと、過ちにはなかなか気が付かないものです。

「人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろきことはおぼえざるなり。わが身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候ふとおもひて、心中をあらたむべし。」 「蓮如上人御一代聞書」195条

お経は、お釈迦様のご説法、ご法話です。そのお経を私たちは聞いているのですが、普通は「お経を聞く」と表現します。しかし、ある人は「お経に聞くが本当の聞き方ではないか」と、言われました。一体どこが違うのでしょうか。

これらの表現には、省略されている言葉があります。まず、「お経を聞く」 とは「(私が)お経を聞く」ということで、自我(私)が中心にあります。次に、「お経に聞く」とは「お経に(自分を)聞く」ということで、お経(教え)が中心となります。

それでは、「お経(教え)に自分を聞く」とは、どういうことなのでしょうか。 中国の善導(ぜんどう)大師は、「経教 は、これを喩(たと)ふるに鏡のごとし」と言われました。日常生活で使用する「鏡」 は、私の姿をそのまま映し出します。しかしそれは、表面上の着飾った私であって、心の内面までは映し出すことはできません。しかし、経教という「鏡」は、普段は上手に隠している、私の内面の姿(本心とか本性)をあぶり出すのです。

私たちは他人のことはよく見えるのですが、自分のことはなかなか見えません。だからこそ、私たちの生活には、「仏法」という「鏡」が必要なのです。

「人間は誰もが裁判官 他人は有罪 自分は無罪」

「他人の欠点がよく見えること自体、自らの欠点である」

という法語もあります。自分が見たり聞いたりしたことは間違いない(我思うが故に、我は正しい)と思い込み、安易に暮らしていると、いつのまにか、他人の過ちを責めることになります。

大切なことは、他人の過ちは自分の過ちに通じるのであり、 他人の過ちから何を学ぶかではないでしょうか。しかしこのことは、「言うは易く、行うは難し」という 現実があり、自己の愚かさに気づかせて頂くには、「法の鏡」に映され、「お経に(自分を)聞く」以外にはないようです。