2021年5月法話 『いのちの願いによってあなたは生まれた』(前期)

「自愛」という言葉

私はいつの頃からか、この「自愛」という言葉の響きに心地良さを感じるようになりました。子ども時代に学校で教わった記憶はありませんので、大人になってから、手紙での結びの言葉として、あるいは「さようなら~」に添えられる別辞として、見聞きしたのだと思います。

「どうぞご自愛ください」、「ご自愛専一に」など、意味としては「お身体お大事に、お気を付けて」といった特に体調面を気づかうワンフレーズになるのでしょうが、それ以上に、どこか、呼びかけられる「あなた」と、呼びかける「わたし」をともに包み込む祝意の言葉であるように思います。同音異義語の「慈愛」という言葉とともに、「愛」を感じる表現の一つです。

さて、この「愛」という言葉ですが、仏教の伝統ではよい意味とよくない意味があります。よい意味では経典の「和顔愛語」「月愛三昧」や、正信偈の「一念喜愛の心」といった言葉です。また、阿弥陀さまは、「愛光」と言い表されてもいます。よくない意味では「愛欲の広海」や「貪愛」「愛憎」といった執着や支配欲など煩悩を指す言葉です。

このよい/よくない対比でいいますと、よい意味とは、「わたし」と「あなた」の生き方の目標になる仏語ですし、よくない意味とは、どこまでも自分本位から離れることのできない「わたし」と「あなた」の実際の姿のことで、生き方の課題を言い当てた仏語と言えましょう。

「自灯明・法灯明」の願いとして

仏教の思想を高く評価した社会心理学者のエーリッヒ・フロム氏は、自己を成長へと向かわしめる「自愛」と、排他的な愛である「利己心・ナルシシズム」を区別しています。いわば自己の成長とは、「自愛」によって「他愛」に至ることができ、「他愛」によって「自愛」できるようになる道程のことなのでしょう。

しかし、このことは頭では理解しても、真に身をもってはよく分かっていないのではないかと思わずにはおれません。過大に評価する「自慢」の自分がいたり、反対に過小に見積もってしまう「卑下慢」の自分もいます。『西遊記』の孫悟空がどれほど暴れて自在に飛び回っても、それが幻想(無明)であったことを知らされるのは、お釈迦様の御手にぶち当たったからです。

同様に、「わたし」と「あなた」のパーソナルな関係をはじめ、その総体である歴史社会が生み出している幻想(無明)の中で、「わたし」も「あなた」も振り回されているだけなのかもしれません。だから、「わたし」以外の「ものさし=法」が必要なのであり、その「ものさし=法」を灯火としてほしいという願いが、仏法の「法灯明」の教えなのでしょう。

 

今月の言葉は、「いのちの願いによって、あなたは生まれた」です。

「いのちの願いによって、あなたは生まれた」のですよと「わたし」が呼びかけられるとき(法灯明)、自愛をもって生き抜く「わたし」に育てられていく(自灯明)。そんな「いのちの願い」を、「あなた」にも「わたし」にも当てはまる「慈愛」の「ものさし=法」の言葉として味わいたいと思います。

※ エーリッヒ・フロム氏(1900~1980)の仏教への言及について追記しておきます。
フロム氏は仏教、特に禅仏教を西洋に紹介した鈴木大拙氏(1870-1966)との共著もあり、その大拙氏は『教行信証』の英訳、浄土真宗の篤信信者・妙好人を広く紹介した仏教思想家です。
フロム氏は、仏教思想は「自由な人間」と「幸福な人間」を生み出すラディカルな真理と洞察であると言います。

 

「真理が人を救い、いやすという考えは、人生の偉大なる教師たちが昔から表明してきた洞察であって、それを最もラディカルにかつ明確に表明したのはおそらく仏陀だろう。・・・

仏教思想では、幻想(無知)は憎しみや貪欲とともに悪の一つであって、苦しみを必然的に生み出す渇欲の状態にとどまることを望まなければ、人はその幻想を捨てなければならない。

仏教はこの世の喜びに反対はしないし、快楽にさえ反対はしないが、それはそれらが渇欲や貪欲の結果でない場合である。貪欲な人間は自由な人間ではありえないし、幸福な人間でもありえない。

彼は物の奴隷であって、物に支配されている。幻想からさめる過程が、自由を得る条件であり、貪欲によって必然的に生み出される苦しみから解放される条件である。

・・・キリスト教とユダヤ教の伝統における真理の概念と、幻想からの解放への要求とは、偶像的な神の観念に毒されているので、仏教の場合ほど中心的でもラディカルでもない。」(『フロイトを超えて』1980、11~12頁)