私は、物心ついた時には、既にこの「私」という人間を生きていました。生まれる前に、「人間に生まれたい」とか、あるいは「男に生まれたい」「長男に生まれたい」「昭和という時代に生まれたい」等々、何一つ自ら願った覚えはないのですが、まさに気づいた時には、この「私だった」のでした。つまり、「自分で願って今の私に生まれてきた」というわけではありませんが、その一方、気づいた時には親の願いをこめてつけられた名前で呼ばれていたのです。
端的には、私のこのいのちは、親の願いを受けて生まれきたのであり、同じように両親にもそれぞれ両親がいますし、祖父や祖父母にもそれぞれ両親がいるので、繰り返しさかのぼっていくと、そこには多くのいのちの歴史があることが知られます。そして、私が今ここにこうして生きているということは、それぞれが願いをもって、それぞれの人生を生きて死んでいった、その人々の歴史を、今この身に受けて生きているのだということが思われます。
ところが、一般に私たちは何よりもまず「私があって」ということころからしか自分の存在をとらえていませんし、その自分というものを、「自分は自分」というところに立ち、個別的に考えていたりします。そのため、自分の人生が思い通りにならなかったりすると、「どうせこんな私なんか…」という言葉をつぶやいたり、投げやりな気持ちに陥ったりすることもあったりします。
けれども、私のいのちは、私の先を生きた無数ともいえる多くの人々が、生まれ変わり死に変わりするたびに、一つの願いとなって新しいいのちを生み出してきた、そのいのちの歴史の延長線上にあるのだということを知ると、まさに多くの「いのちの願いによって自分は生まれてきたのだ」ということに頷かざるを得ません。
そのことはまた「倒木更新」という言葉によって味わうことができます。「倒木更新」とはいったいどのようなことかというと、北海道の蝦夷松(えぞまつ)は、秋になるたくさんの種を地上にまきます。その種は、一応春になると一斉に芽吹くのですが、周知の通り北海道の自然は過酷ともいえる厳しさなので、生長していく芽はほんのわずかなのだそうです。では、どのようにして生長していくのかというと、寿命が終わって倒れた蝦夷松は年月を経るとやがて腐り、その表面に苔が生えてくるのですが、その苔の上に偶然落ちた種が、倒木の腐った土の温もりや苔の潤いなどに守られて育っていくのだそうです。そのため、倒木の長さだけ一列一直線に同じ高さの蝦夷松の木が生長していくことになります。その光景を「倒木更新」と呼ぶのだそうです。
先に倒れていった木が、今度は自分の上に落ちてきて芽吹いた新しいいのちを守り育んでいく。それと同じように、人間も先に生まれた人が願いをもって新しいいのち生み、その生涯を通して新しいいのちを導いていく。そして、先に逝った人の願いを受けて、新しいいのちはまた次の新しいいのちを生み育んでいく。そのような歴史が重ねられる中に、多くのいのちの願いをこの身に受けて、私は生まれてきたのだと味わうことができます。
ところで、「生」という字には、「生まれる」「生きる」「生む」という三つの意味があります。これは言い換えると「誕生する」「生きていく」「生み出す」と読めますから、「生」という字はこの三つの要素もっているといえます。そうすると、「生まれる」ことの内容は「生きること」であり、「生きること」は「何か新しい自分を生み出すこと」だと考えられます。
では、私たちは日々こうして生きている中で、事実としては確かに今ここにこうして生きているのですが、はたして「生きる」という実感をもって生きているでしょうか。私たちは、生まれた後やがてどうなるかというと、遅かれ早かれ間違いなく死に至ります。それは、私たちの人生は、生まれた瞬間から漠然と「生きていくことになる」と思っているのですが、身の事実としては刻一刻と死に向かって歩みを進めているということです。したがって「生きるというのは、どのようなことですか」と問われると、一言でいうなら「死に向かって進むこと」だと言わざるを得ません。
その事実に気づくと、人生においてどれほどの成功をおさめ名声を得ていても、巨万の富を築き上げていても、それで死ぬことが免除されるかというと、絶対にそれはあり得ないことなので、「どうして自分は頑張っているんだろう」という疑問がわいてくることになります。そして「生きる」ことの意味や、そのことへの積極性を見いだせないと、その人生の全体が空しさに包まれてしまうことになります。
そうしたことを踏まえると、「生きるとは生まれることだ」と言えるように思われます。一般に、私たちは「自分は何となく生まれてきた」かのように錯覚しているのですが、生きていく中での不満をそこにぶつけるのではなく、むしろ既に「生きている」のですから、「生きる」という事実の中で、本当にそのことへの実感を持てないとすると、その人生は死に向かって歩く以外にはなくなるのだと言えます。
つまり、「生まれる」ことは、単に肉体が誕生することの説明の言葉にとどまるのではなく、「生まれる」ということが「生きること」の内容になってこそ、初めて私たちの人生は、事実としては確かに死に向かうものであったとしても、その内面においては常に「生まれる」という事実を刻一刻と生きていくことになるのです。そして、賜ったこのいちのが終わるその瞬間まで、「生まれる」という事実を生きていくことになるのです。
具体的には、私たちの人生は悲喜こもごも、いろいろなことが縁にふれ折りにふれ降りかかってきます。そのため、悲しみにあえば、そのことを通して悲しみを知らなかった自分が悲しみを知った自分へと新しく生まれ、辛いことにあえば、そのことを通して辛いことを知らなかった自分がつらいこと引き受けて生きていくような新しい自分へと生まれていきます。そして、いのちの終わる時が一番新しい自分になって、この「生」を果たし遂げていくのです。
このように、いのちの終わる時まで生まれ続けていく。悲しいこと、辛いこと、苦しいこと、時には死にたくなるような思いや経験のすべてを、新しい自分に生まれる素材にしながら、いのちの終わる時まで生まれ続けていって、最後に「本当に自分に生まれてよかった」と言える自分になって死んでいけるような人生にできるか否か、それが「いのちの願いによって生まれた」私の一番の課題だと言えるように思われます。