「春は別れと出会いの季節」といわれますが、3月は卒業式に象徴されるように、まさに「別れ」の時節です。
振り返れば、幼児期には保育園や幼稚園、こども園での別れがあり、少年期には小学校、思春期には中学校、青年期には高校・大学など、その都度、出会った友だちとの別れがあります。
また、そのような節目のときだけでなく、日常生活でも別れ際には「さようなら」という言葉を口にしたりしますが、何気なく使っているこの「さようなら」という言葉には、いったいどのような意味があるのだろうかと、ふと疑問を覚えしまいました。
そこで、まず外国ではどのように言い方をしているか調べてみると、英語では「good-bye」「see you 」「Farewell」といった言葉が使われています。
「good-bye」は、「God by with you !」の短約形で、直訳すると「(別れた後も)神様があなたと共にいますように!」ということです(「良い」を意味する「Good」とは関係がありません)。人と別れる時や電話を切る時、家から出かけるときなど、別れの挨拶として使われる最も一般的な言葉で、朝・昼・夜のいつでも使うことができ、口語では単に「bye」とも言います。
ただし、「good-bye」は離別・告別の場面でも用いられる表現なので、少し悲観的なニュアンスを含みやすいことから、日常的な場面では再会を前提した気軽な表現である「see you(直訳すると「また会いましょう」)」が使われているようです。
なお「see you」の後に、うっかり「again」を使うのは考えものです。なぜなら、「see you again」は「またね」「また後でね」という意味ではないからです。「see you again」は基本的に「永遠の別れ」の際に使います。ネイティブは、今後はもう二度と会えないかもしれない相手に対して「see you again」と言います。そういった意味では「see you again」には「また会う日まで」という和訳が適切なようです。このように「see you again.」はかなり重い言葉なので、日常的に使う場合には注意するようにしたいものです。もし、仕事などのあとに「see you again」というと、「えっ! どこか遠くに行ってしまうの?」と思われてしまう可能性大です。
「Farewell」は直訳すると「うまくやってください」で、相手の健康を気づかう言葉ですから、日本語では「元気でね」といった感じでしょうか。
この他、中国語(北京語)で「さようなら」は「再見」と書き、直訳すると「また会いましょう」です(中国語の「会う」は「見」で、「見る」は「看」という漢字になります)。
また、ドイツ語は「Auf Wiedersehen」で、直訳すると「また会う時まで」という意味です。
フランス語は「Au revoir」で、こちらも直訳すると「また会う日まで」という意味です。
では、日本語の「さようなら」には、どのような意味があるのでしょうか。
この言葉は、もともと「さようであるならば」という意味の「さらば」「さようならば」という接続詞です。
なぜ、接続詞が別れの言葉になったのでしょうか。それは、日本人が「別れ」を「いったん立ち止まって、今までのことを確かめ、次のことへ進むための節目とすること」と考えていたからです。
そのため、「さようなら」という接続詞そのものが、いろいろな意味を含む別れの言葉になったのです。
つまり、「さようなら」は、「振り返ると今まではこうだった。そうであるならば、これからはこのようにしていこう」という意味を込めて使っていたのです。
そうすると、「さようなら」を口にする場合、どのような意味を込めるかは、使う場面や、その人の心情によって様々に変化することになります。
ところで、なぜ私たち日本人は、言葉そのものには特定の意味を持たない「接続詞」を「別れの言葉」として使い続けてきたのでしょうか。
それには、おそらく「他人の心中や考えなどを推しはかること」を意味する「忖度する」こと、言い換えると「空気を読む」という日本人特有の文化が関係していると考えられます。
端的には、日本人の文化には「はっきりと言葉にして言わなくても、その状況をお互いに推し量ることができるし、むしろ口に出さない方が好ましいと感じる」傾向があるということです。
例えば、保育園や幼稚園、こども園などで保育者が子どもたちに「さようなら」と言う時は、「今日も一緒に楽しく遊びましたね。そうであるならば、明日もまた一緒に楽しく遊びましょうね」と、語りかけているということになります。
「みなまで言うな」と言う言葉を聞いたりすることがありますが、日本には「一から十まですべてのことを言うのは無粋なとことで、言わなくてもわかることをあえて口にする必要はない」という文化があります。
したがって、私たちが「さようなら」と言う時には、その前に「これまでのことを確認した」、その後に「これからもきっと大丈夫」という言葉を伏せて、「そうであるならば」という意味の「さようなら」を口にし、「これからもきっと大丈夫でありますように」という願いを込めて使っているのだと言うことになります。
けれども、日頃、はたしてそのようなことを意識しながら「さようなら」と口にしていますかと問われると、戸惑ってしまう人が多いかもしれません。
「別れの時節」に、誰かと別れをする場合、そこにどのような願いを込めて「さようなら」の言葉を口にするか、考えてみたいものです。