自分の悲しみを通して 人間の悲しみをしる

日本人の8割が病院での死を迎える今にあって、鹿児島県の与論島では半数の人が『住み慣れた自宅で最期を迎えたい』と在宅死を選ばれているそうです。某新聞の記事を紹介させていただきます。

 

【与論町に住む朝岡勝雄さん(当時86歳)は、鹿児島市内の病院で末期の大腸がんと診断を受けた。病院での治療はせずに自宅に帰ることを望んだ。
ベッドは自宅の玄関を入ってすぐの部屋に置いた。家族が帰ってくる足音が聞こえる場所である。自宅に帰った昨年5月からの10か月間は、デイケアで仲間と過ごしたり、牛の様子を見に行ったり普段通りの生活を過ごした。年が明け寝たきりになると、島にいる子ども3人の家族が、24時間体制で見守った。島外にいる子どもや孫たちも代わる代わる勝雄さんを見舞った。
「ありがとう」勝雄さんはよく呟いた。
長女の日高静香さん(54歳)は父を看取り、身体を拭いているとき、家族と昔のことを思い出して笑いあったのを覚えている。「本当に寂しかったけれど、父が望む生活をみんなで支えられた。きっと満足してくれている。」そんな気持ちだったと述懐されている。】

 

病室で機械に囲まれ、一人で死を迎えるのに対し、家にいることで心が癒され和らぎ、最後まで家族とともに過ごしながら死を迎えられるというのは、看取る側にとっては、同じ悲しみでも納得して受け止めることのできる悲しみではないかと思います。