投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「年の暮れ 何気ない日常にこそ幸せがある」 今ここに生きている 生かされている

誰にでも何気ない日常には幸せがあります。例えば、スヤスヤと眠る子どもの寝顔を見た時、日々家族が作ってくれるあたたかいご飯、誰かからかけられた優しい言葉等など、それなのに何気なく過ごしているとその一つひとつを当たり前のこととして感動もなく過ごしているのが私たちではないでしょうか。しかしよくよく考えてみて、当たり前ではなかったと気づかされる時、私の日常の彩りが深まります。さらには、いのちの源に思いを馳せますと、当たり前ではない究極なことは、今生きているということ、私が今ここに存在しているということなのかもしれません。

祖父の言葉をふと思い出します。『朝、目が覚めて鳥の鳴き声を聞くと 今日もいのちいただいたなぁ 有り難かな 不思議じゃな』と。

その頃私は20代前半であったせいか、言っていることは分かりますが、もうひとつピンとこないというか、そこまで感じることも意味を味わうこともできませんでしたが、あれから何十年の齢を重ねてきて、今ほんのの少しだけその言葉の深さに気づかされます。

たしかに、眠っている時にはすべてを投げ捨てて眠っています。自分の心臓ながら自分で動かしているわけでもない。肺を自分で動かしているわけでもない。眠っている時は特におまかせです。しかし目がさめてみたら、気づいたら朝。まさしく生きているのではなく生かされてあることの不思議さに気づかされます。私が分かろうとも分からなくとも、大いなるいのちによって支えられ、縁によって生かされていることは紛れもない真実です。そこに気づかせていただきますと、生きているということ自体がよろこびであり、いのちは無条件に尊いと言えましょう。

そう、“私は今ここに生きている、生かされている”

驕りは人間を滅ぼし 争いは世界を滅ぼす

私は本当に哀れです。

鼻から鼻毛が出ていても、鏡を見たり他人から教えてもらったりしないと気づきません。自分のことは私が一番分かっているようで、分かっていないのが人間です。

それなのに自分の幸せの為なら他人を陥れたり、傷つけたりしてしまいます。自分は言われたくないのに平気でひどい言葉を口にもします。

 

他人の気持ちなんか気にしていないから“おごる”んでしょうね。どんなに素敵な人であっても、魔が差せば自己中心に振る舞います。

また、他人のことばかり気にしてしまうから“おごる”んでしょうね。他人と比べないと、自分の幸福感が感じられない哀れな者です。

 

人それぞれ考え方や価値観が違います。だから対立するものです。この違いが大きくなったのが戦争なのかもしれません。

争いのほとんどは信仰や思想、文化や価値観の対立によるものです。戦争や内紛が後を絶ちません。他国や他組織と自分たちを比べるからでしょうね。宗教は命の行く末や命の存在と向き合うものです。しかし、ときにこの宗教が簡単に人を殺します。生まれたての赤ちゃんを爆弾で平気で殺すのが宗教です。とても悲しくてしょうがありません。

 

ひとの心は誰にも見えません。だからこそ、見えるものよりも大切にしなければなりません。自分のすがたを教えてくれる鏡が必要です。

晴れの日もよし 雨の日もよし いつも仏の慈悲の中

昔、小学生のピアノコンクールを見る機会がありました。私が会場に入るとちょうど司会の方が次の演奏者の案内をされたところでした。舞台袖から可愛らしいドレスに身を包んだ一際小さな女の子が、緊張した面持ちで出てきました。観客席に深く丁寧に挨拶をして、足もつかないようなピアノに飛び乗って、演奏を始めました。最初は上手に弾いていましたが、緊張のためか間違ってしまい、思いもしない音が響きます。少し間を置き、呼吸を整えて、もう一度間違ったところから女の子は演奏をスタートします。しかし、一度狂った調子は取り戻せず、そのあとも何度も止まってしまいます。肩をガタガタ震わせていましたので、泣いているのかもしれません。観客席は心配してその子を見守っています。舞台袖では先生が出て行こうか躊躇しています。それでも女の子は決して演奏を止めようとはせず、最後まで1人で立派に弾き切り、一際大きな拍手が観客席から起こりました。演奏を終えた女の子の観客席に見せた表情は真っ青で、唇を一文字にかみしめ、両手の拳はぎゅっと握りしめて、泣くものかという意思が伝わってきます。始まる前の丁寧なお辞儀とは違い、ちょこんと頭を下げて、そのまま早足に舞台を降りて行きました。そして、舞台を降りた女の子は、降りるやいなや、どこかへ向かって駆け出しました。ドレスの裾を踏んで転びそうになりながら向かった先は、お母さんの胸の中でした。その胸の中から会場中に響き渡るほど大きな泣き声が聞こえていました。

私はその様子をみながら、女の子は舞台の上では泣けなかったのだなと感じました。お母さんは、女の子が今日の発表会のためにどれほど頑張っていたか、どんな思いで今日を迎えたか、間違ったときにどれほど悔しかったか、全部知っていたのでしょう。きっと、いつも応援してくれていたお母さんの腕のなかだから泣けたのだなと感じ、泣ける場所があるということが有難いことだなと思いました。私たちも生きていればあの女の子のように泣きたい時もあろうと思います。しかし、この社会は「しっかりしなさい、頑張りなさい」の風がピューピュー吹いていまして、簡単には泣かせてはくれません。

浄土真宗で大切にしている仏さまを阿弥陀仏(あみだぶつ)と申します。源信(げんしん)というお坊さんは、往生要集(おうじょうしょうしゅう)というお書物のなかで、この阿弥陀さまのことを「極大慈悲母(ごくだいじひも)」とおっしゃられました。阿弥陀さまは、私たちのすべてを知り尽くし、抱きとってくださり、決して離れることのない、極めて大きなお慈悲の母のような仏さまです。
「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」とその名前を称えるものは、そんな安心して涙をながせるはたらきのなかに身を置かせていただいています。

「お互いさま」許されながら生きている

満員電車に乗った時や車が渋滞している時に、「何でこんなに混んでいるんだ。同じような時間に乗らないで」と思うことでしょう。満員電車や渋滞は自分以外の人や車のせいで起こっているかのような勘違いをしていまいます。よく考えてみると、満員電車の中の1人は私です。渋滞している車の一台は私の乗っている車です。「お互いさま」です。

おいしい食事をいただきました。その分の代金を払うのだから、「感謝されこそすれ、感謝する必要はない」と思っていませんか。お金があっても、その料理を作ってくれる人や農家さん、漁師さんがいなければ食べることはできません。「お互いさま」です。

お互いに色々な思いや苦労をやりとりして生きているのです。それらに思いを馳せ、感謝する言葉が「お互いさま」でありましょう。

楽しい時に笑顔が育ち 苦しい時に心がそだつ

仏教ではこの世界のことを「娑婆」と呼びます。これはsahā(サハー)という古いインドの言葉の音を漢字にあてて表記したもので、意味としては、忍土(ニンド)とか忍苦土(ニンクド)と訳され、この世界は「苦しみに耐えていく世界」と言う意味になります。人生は「苦」を離れることができないと言うことが、真理であると説かれています。

人は誰もが、辛いこと苦しいことよりも、楽しいこと嬉しいことが多い人生を望んでいるのではないでしょうか。しかし「幸せな人生を過ごしたい」と願う一方で、辛いことや悲しいことにもやっぱり出会っていかなければなりません。

人はみんな、生まれ、老い、病気をし、いのちを終えていくことから逃れることができません。そして、こうありたい、こうしたい、と願いながらも、それら全てが実現するような人生はどこにもありません。

仏教にたずねてみますと、嬉しいこと楽しいことはもちろん、辛いこと苦しいことも含めて人生に無駄なものは何一つないと教えてくれます。困難に出会って、育つものがあるとすればそれは何でしょう。困難に立ち向かう気持ちもそうでしょう、困難を受け入れる心もそうでしょう。立ち上がることのできないような大きな困難に出会った時、他者への共感が生まれてきたり、困難な状況の中でこそ見えてくるものもきっとあるのではないでしょうか。

私たちのご本尊、阿弥陀如来は、「あなたがどの様な縁に触れようとも、どの様な状況におかれたとしても、あなたを決して一人にはしません」と、はたらいてくださる仏様です。「楽しい時に笑顔が育ち 苦しい時に心がそだつ」とても素敵な言葉です。

梅一輪 大千世界の 春やどす

梅の花が咲きだしました。梅の花に春の訪れを感じ、これからだんだんと過ごしやすくなっていくのだろうと嬉しくなります。

今月のことばの中に出てきました「大千世界」。なかなか聞きなれない言葉かもしれません。古代インドでは、太陽も月も星もひっくるめて、私たちが過ごす一つの世界と考えていました。今でいう太陽系のようなものでしょうか。そのような世界が千個集まったものが小千世界で、小千世界が千個集まったものが中千世界、中千世界が千個集まったものが大千世界といいます。ですから大千世界とは想像も及ばないような大きな大きな世界のことを言います。

一輪の小さな梅の花ではありますが、この花が咲くためには風雪を耐えた枝木の頑張りがありました。また地中に張った根のおかげもありました。根は目には見えませんが、地上の枝の広がりと同じくらい地中で根を広げているとも言われます。梅の木だけの頑張りだけではありません。それを支える地面、降り注いだ太陽の光、潤いを与えた雨、さらに目には見えない、言葉でも説明できない無数のご縁もあったことでしょう。

春をつげる小さな梅の花の中に、広大な大千世界の想像もできないような繋がりや支えが宿っているのです。