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平成30年11月法話『愚痴の出る口から お念仏がこぼれる』(中期)

仏教では、すべての「苦」は無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説いています。

「煩悩」とは身を煩わし心を悩ますもので、その数え方はいろいろあります。

除夜の鐘でよく知られている百八、あるいは八万四千、また集約すれば三つにおさまるともいわれます。

この中の三つが、人間の持つ根本煩悩と定義される「三毒の煩悩」で、具体的には「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)」です。

「貪欲」とは欲望をいだきそれに執着すること、「瞋恚」とは自分の気にいらないことに対し憎み怒ること、「愚痴」とは道理に無知であることです。

大乗の経典(『涅槃経』)には、この三つが病にたとえられ、その治癒法が

「貪欲の病には骨相観を、瞋恚の病には慈悲観を、愚痴の病には縁起観を教える」

と、説かれています。

「愛欲におぼれている者には、その対象がどれほど魅力的に見えたとしても、結局最終的には骨になってしまうことを観察させる。

怒りの心に満ちている者には、なぜ腹立たしいのかをよく見きわめさせて慈悲の心を回復させる。

自分の知っていること以外は何も知らないのに、世の中のすべてのことが自分には分かっていると錯覚して、自己中心的な見方しかできない愚か者に対しては「すべての存在はさまざまな条件(縁)によって生じるという縁起の理法を観察させる」と。

また、こられの煩悩を消し去るものが「智慧」であると説かれます。

仏教では、 この智慧を「忍」という字で説いています。

『仏説観無量寿経』において、韋提希夫人が「無生法忍」を得たということが述べられています。

この「忍」とは「認可決定」という意味で、はっきりと認めていく、勝解(しょうげ)という、すぐれた理解をするという意味だという説明がなされています。

そのような意味で、「忍」とは「認める」ということだといわれています。

けれども、そうであれば「無生法忍」ではなく「無生法認」とすれば良いように思われるのですが、あえてそこに「忍」という字が用いられているところに、何らかの意味があるのだと考えられます。

では、それはどのような意味かというと、ギリシャ人の「智慧」に対する理解がこの「忍」の意味に通じるものがあるように感じられます。

ギリシャ人は「智慧」を「情熱」という言葉で表していたといわれます。

この場合の智慧とは、知識をたくさん持っていることではなく、情熱を持っていることだというのです。

そしてこの情熱とは、何があっても何かを最後までやり遂げるということではなく、それがたとえどんなに辛いことであったとしても、それが事実であれば事実として受け止め、その事実を生きていくという、勇気としての情熱として理解していたと伝えられています。

これと同じように、仏教における智慧も、うまくいってもいかなくても、自分の人生の事実をすべて引き受けて、その事実を生きていく勇気のことなのです。

これに対して、愚痴というのは、何も知らないということではなく、事実を事実として受け止めて引き受けていくことのできない弱さのことをいいます。

どれほど愚痴をこぼしてみても、その事実が変わるということはありません。

にもかかわらず、自分の思い通りにならないことの原因を他に責任転嫁したり、世間を呪ったりするばかりで、不都合な事実をどこまでも受け入れようとしないあり方にとらわれてしまうのです。

一方、どれほどその事実が自分にとって受け入れがたいことであったとしても、私は私の人生の事実をこの身にしっかりと受け止めていく勇気を智慧といい、また忍という言葉で表しているのです。

とはいえ、やはり私たちは、いつまでも健康で、経済的な不安を感じることもなく、家族をはじめ大切な友だちと日々楽しい生活を過ごしたいと思っているのですが、それらにほころびが生じ、思い通りにならない現実に直面すると、つい愚痴の言葉があふれ出てきます。

一つしかない口なのですから、他をそしったり世の中を呪ったりするような言葉よりも、生かされて生きているこの身の幸せを喜んだり、私を支えてくださっている周りの方々への感謝の言葉を口にすることができれば良いのですが、なかなか難しいものです。

親鸞聖人は、この仏さまは本来「色もなく形もなく、言葉で言い表すことも想像することもできない」存在であるが故に、私たちすべての煩悩を兼ね備えている凡夫にはとうてい理解し得ない。

だからこそ、仏さまの側からその存在を私たちに知らしめるために、自ら「南無阿弥陀仏」と名を名のり、私の称える念仏の声となって躍動しておられるのだ、と教えておられます。

まさに、愚痴しか出ない私の口から、阿弥陀仏という仏さまは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、念仏の声となってこぼれ出て、常に私を導いていてくださる仏さまなのです。

 

ひらかれていた道といのち(前期)ブッダ(仏陀)の意味は「心理=ありのまま」

ご講師:高田 未明さん(中央仏教学院講師)

今日は、仏教の入門といいましょうか、基本的なことからお話させていただきます。

鎌倉時代に親鸞聖人(しんらんしょうにん)が明らかにされたのはお念仏の仏教です。

仏教には座禅や瞑想による修行をするもの、苦行や荒行を重ねて悟りに至ろうとするものなど、修業をして自分の方から仏さまの境地に近づいていこうとするものもあります。

自分から歩みを進めて押し開いていく実践方法を押し開きのドアと例えます。

常識や道徳の捉え方に似ている部分があるように思います。

一方で、親鸞聖人が明らかにされた仏教は「南無阿弥陀仏」を称えるお念仏の仏教です。

こちらは引き開きのドアのようなもので、それもむしろ向こうからドアを開けて待っていてくださるのです。

たとえば親子関係に似ています。

子どもは親にそっぽを向いていても親はずっと子どもの方を見続けているという、一方的な親の救いのようなものです。

これらは自ら歩いていくのと船などの乗り物に乗せられていくのと、進み方や向かい方に違いはありますが、行き先は全てインドの言葉でいう「ブッダ」の世界です。

漢字にあてはめて「仏陀」と表示しています。

もともとはインドの言葉でブッダという言葉が最初にあるのです。

ブッダの意味するものは「本当」や「真理」です。

真理とは「ありのまま」と理解していただければと思います。

私たちの世界ではものを見るときに、時と場合や自分の都合などで判断が違います。

長い短い、大きい小さい、損だ得だ、好きだ嫌いだなど、条件によって変わります。

実は私たちはありのままを見ているようで実は見ていないのです。

仏陀はありのままの様子がありのままに見えています。

真理に目覚めたお方です。

そんな仏(陀)にならせてもらうという教えだから仏教と言います、ほかでもない私が導かれて真理に目覚めた人にならせてもらう、それが究極の目的であり、行き先です。

 

「共命鳥」と「一卵性双生児」

鹿児島県内の浄土真宗のお寺を母体とする保育園、幼稚園、認定こども園が加盟する鹿児島教区保育連盟という組織があります。

その鹿児島教区保育連盟が監修、制作した子ども用の教材に、子どもたち自らが自分の手で作り上げる「ミニ仏壇」があります。

今、自宅にお仏壇のある家庭がほぼ無くなってきた中で、子どもたちは園生活の中で手を合わす機会はあっても、一番身近な「家庭」や「家族」という環境の中で合掌の心が育まれることがなかなか少ないように思います。

手を合わすということは、決して習い事などというものではなく、多くのお陰によって「生かされているいのちにめざめる」、まさに人間としての土台を育む乳幼児期の子どもにとって大切な育ちの一つではないでしょうか。

また子どもたちの合掌礼拝する姿を通じて、若いお父さんやお母さんも我が子に導かれて子どもと共に敬いの心を育み、毎日の生活の中に手を合わす環境をまずは身近な家庭から、という願いのもとに制作されたのがこの教材です。

 

このミニ仏壇に、極楽浄土にいるといわれる六つの鳥が登場してきます。

これらの鳥は仏さまの教えを説き弘めるために、それぞれに物語を持っています。

その一つに「共命鳥(ぐみょうちょう)」と呼ばれる鳥がいます。

上の画像でいうと左上にいる鳥です。

この鳥は「一身双頭」という不思議な鳥で、胴体は一つですが頭が二つあります。

それぞれに個性や考え方を持っていますが、胴体は一つで命を共にしているところから共命鳥と呼ばれています。

この鳥の物語として、ある時一方の鳥が眠っている間に、もう片方の鳥は相手に黙っておいしい木の実を自分だけ食べてしまいました。

それに気付いたもう一方の鳥は腹を立てもう片方の鳥を憎み、やがて「こいつさえいなければ自分も自由に飛び回ったり思い通りに生きることができるのに」という感情を持ち始めます。

そしてとうとうある時、片方の鳥に毒の実を食べさせて殺そうとします。

けれども、胴体は同じですので結局はその毒が自分にもまわり、どちらも息絶えてしまうというのがこの共命鳥の持つ物語です。

もちろんこの鳥が実在しているものではありませんが、いる・いないということではなく、大切なことは仏さまが共命鳥を通して何を私たちに伝えたいかを伺うことです。

ふり返ってたずねてみると、私たちの社会でも共命鳥と似たような境遇に出会うことも少なくはないような気がします。

自分にとって都合の悪い人、気にくわない人。

意見が違ったり、考え方が合わなかったり、そのことで相手の全てを否定し、排除してしまいかねないのが自分であります。

また、自分勝手な思いを押し通すことは、自らを傷つけ、他人をも傷つけてしまうことになりかねません。

共命鳥はまさにそのような自己中心的な思いで生きている私の姿を映し出しているようでもあります。

ですが、この共命鳥もそのような過程を経て今は極楽浄土の世界で、お互いを労り、慈しみ、『他を滅ぼす道は己を滅ぼす道。

他を生かす道は己を生かす道』と美しい声を響かせながら、仲良くする姿の象徴としてお浄土の中に描かれています。

このミニ仏壇を教材として子どもたちは、制作する過程の中で担任の先生からお浄土に舞う鳥たちの物語を聞きながら仏さまの教えにふれ、お友だちと仲良くする大切さや優しい心を育んでもらいたいというのが、この教材のねらいでもあります。

来年小学生になる我が家の双子の娘も、通っているこども園でこのミニ仏壇を制作し、それぞれ嬉しそうに「私のお仏壇」を大事に抱きしめながら家に帰ってきました。

早速家のお仏壇の前に二つ並べて飾り、鐘を何度も何度も打ち鳴らしながらはりきって手を合わせて「なもあみだぶつ」とお念仏している我が子の後ろ姿を目を細めて眺めることでした。

一卵性双生児の双子として生まれてきた二人の娘。

母親の胎内で一つの同じ卵の中で、同じ胎盤を共有しながらの妊娠期間でありました。

片方に栄養が偏りすぎないか、成長に差が生じていないかなど、出産を迎えるまで日々心配は絶えませんでしたが、そんな二人の姿がまるでお浄土の共命鳥のように、私の目には重なって見えるのでした。

このミニ仏壇を作ってから、二人の姿に変化が見られるようになりました。

まだまだ5歳の幼い子どもですので、しょっちゅう二人で言い争ったり取り合いをしたり、ケンカも絶えません。

けれども、ふと共命鳥の鳥を二人に思いださせてあげると、お互い思いだしたように「あっ」と顔を見合わせ、そうだったそうだったと自然と穏やかな心に戻り、譲り合いながらまた二人で仲良く遊ぶ姿が見られました。

二人とも双子としての意識は既にありますので、共命鳥の物語を聞いて何かしらそれぞれの心に響くものがあったのでしょう。

言わば母親の胎内にいる時から同じ胎盤を共にして命を生きてきたのですから。

いつまでこの声かけが二人の心に届くかは分かりませんが、そんな二人の姿から、私もまた仏さまの心に触れさせていただいているようです。

今日もまたいつものように双子の共命鳥がドタバタとやってきては、またいつのまにか緩やかに羽ばたいていく。

仏さまの教えはどこか遠い世界の物語ではなく、いつも私の側で私に語りかけてくれているようです。

 

 

年回法要は祥月命日の前にするのは良いが、先のばしにしてはいけないと聞いたのですが。

年回法要の日取りを決める場合はまず、事前にご住職に相談され、日時の打ち合わせをした後で、当日お参りして下さる方々にご案内をされて下さい。

年回法要は、1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、25回忌、33回忌、50回忌、100回忌。

以後50年毎に行われます。

23回忌や27回忌をお勤めする場合もあります。

大切な大事な方とのお別れを縁として、1周忌・3回忌・7回忌と勤めていくわけでありますが、お別れしてから30年40年と年を重ね、そして色々と忙しく生活しているとついつい大切なその方の月の命日さえも忘れてしまっていることもある我々の姿があります。

以前、ご門徒さんがこられて、「実は昨年が33回忌だったのですが、ちょうど仕事で忙しい時期で年忌の年をすっかり忘れてしまっていました。親戚の方に言われてはっとして気づいたんです。1年遅れではありますが、33回忌の法要をお願いします。」と言ってこられました。

私は「1年遅れではありますが、先にお浄土へと生まれ往かれた方を偲んで、ご縁ある方々が集まり、ほとけさまの教えにふれ、我がいのちのありようを静かに見つめさせて頂く33回忌のご縁を結んで下さったことは大変尊いことであります。」とお伝えしたことでした。

「年回法要は祥月命日の前にするのは良いが、先のばしにしてはいけない」とよく聞きます。

おそらくそれは、先達の方々が、「浄土へと生まれ往かれた大切な大事なその方の年回法要を忘れずに必ずしていきなさい。忘れないように早めにしなさい。」という戒めの意味を込めた言葉だと思います。

できれば祥月命日のその日に法要をお勤めするのが一番いいのですが、なかなか都合が合わないというのであれば、祥月命日にできるだけ近い日を選んでいただければと思います。

その際に、祥月命日より必ず前にしなければならないとこだわる必要はありません。

祥月命日の前後にかかわらず、お参りされる方が集まり易い日時を選んでご住職にご相談ください。

大事なことは年回法要というのは、亡き人を偲びながら、私たち自身がほとけさまのみ教えにふれさせていただくご縁であると受け止めさせて頂くことです。

 

平成30年11月法話『愚痴の出る口から お念仏がこぼれる』(前期)

近年は、共働きの世帯が増え、日々の生活を忙しくすごされている方が多くなっているようです。

日常の中では、仕事に追われ家に帰ると食事の準備、炊事洗濯、子どもたちの世話といった具合に息をつく暇もありません。

そういった状態ですと、なかなか仏前に手を合わせて、お念仏を申し喜ぶということができない、それどころか、ついつい愚痴ばかりがこぼれてしまうこともあるのではないでしょうか。

口を開けば、不満や文句ばかりで、なぜ自分がこんなに忙しさにおわれなくてはならないのか、社会が悪い、世間が悪い、あの人はだめだ、自然と愚痴がこぼれてしまいます。

浄土真宗の開祖親鸞聖人は、お念仏のみ教えは「必ず救う、まかせよ」といわれる阿弥陀さまから信心をいただいて、ただ念仏申す一生を送らせていただく、ということだと説かれました。

そして、そのように生きていかれたのが、聖人ご自身の歩みでもありました。

お念仏は、本来私が称えようと思って私が称えているのではありません。

聖人は、阿弥陀さまが、日々あれこれ惑いながら右往左往し、目に見えない不安を抱え、悩んだり悲しんだり苦しんだりして生きている、そのような私たちを目当てとして、「念仏せよ、必ず救う」とう教えを喜びいただく者に育て上げようとはたらいてくださるからこそ、私はお念仏を申すことができているのだと教えてくださいます。

それは、今、私が口にしている念仏は、まさに「阿弥陀如来」という仏さまのはたらきそのものだと言われるのです。

阿弥陀さまという仏さまは、私が「助けてほしい」と言ったから、来てくださる仏さまではありません。

私が呼び、私が頼む、そのずっと前から、私が煩悩に迷い、愚痴をこぼす姿を見抜いておられるのです。

そして、忙しい生活の中で悲しみに沈むばかりで、自ら念仏申すことのない者を救おうと、私が願うに先立ってはたらき続けてくださる仏さま、寄り添ってくださる仏さまが、阿弥陀如来という仏さまなのです。

自分の思い通りにならないことがあると、その事実から目をそむけて不平不満ばかりがこぼれ出るその私の口から、阿弥陀さまはお念仏の声となって、私の口から私によびかけてくださっているのです。

阿弥陀さまの願いが、私の体に満ち、響き、私の口からお念仏がこぼれ出てくださる。

それが、親鸞聖人の示されたお念仏だといえます。

 

仏さまのことも、仏法のことも知らず、ましてやお念仏を申すこともなく、日々愚痴ばかりこぼしていた私が、不思議なご縁に合うことによって、お念仏させていただく身の上に育て上げられてきたことの有り難さ、尊さがそこにあります。

「私がいただくこのお念仏は、阿弥陀さまから我が身に届けられたおはたらきでありますよ」との親鸞聖人のお導きであったと、感じられことです。

お念仏の声が自分自身の愚痴の姿を照らし出し、私たちを想う願いの中に生かされている尊いいのちのまことに出会わせてくださりながら、こぼれていくのです。

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