仏教には多くの仏さまがおられますが、浄土真宗の仏さまは阿弥陀如来です。
インド語で「アミター」といい、それを漢字で表記したのが「阿弥陀」です。
カタカナ3文字の後半「ミター」は「量る」という意味です。
この「量る」というのは、すべて限りがあるということを意味しています。
最初の「ア」は非常口の「非」とか、可否の「否」または「無」という意味を表しています。
ですから「ア」と「ミター」が合わさった場合には「量ることができない」ということで「無限」とか「無量」というような意味になります。
何について量れないのかというと、これもインド語で「アミターユース」とか「アミターバー」という言葉があり、「アミターユース」いうのは寿命、時間です。
寿命が限りない仏さまがアミター(阿弥陀)です。
「アミターバー」は「光」という意味で、仏さまのひかりが限りのないことを表しています。
阿弥陀さまは、いつでもどこでも私たちを救うはたらきを止めることがない、そういう仏さまであると名前で表しておられるのです。
阿弥陀さまは西方のお浄土におられて、生きとし生けるすべてのものを「必ず救うぞ」と呼び続けていらっしゃいます。
どのように救ってくださるのかというと、すべてのものを「南無阿弥陀仏」と念仏する身に育て上げ、そしてお浄土に生まれさせて「仏(ぶつ)」とならせ、真理に目覚めさせる、そういう救い方です。
私たちは旅行をし、温泉に入り、ごちそうを食べ、お酒を飲み、カラオケで歌い、そんなことを日々の喜びや楽しみとし、そんな機会に多くあやかりたいと望みがちですが、そんな私たちに向かって、仏さまは「お浄土に生まれさせて仏とならせるぞ」とおっしゃいます。
私たちの願いと仏さまの願いとは食い違っているかのようですが決してそうではありません。
「良いことをしましょう、悪いことを慎みましょう」という言葉は3歳の子どもでも知っていますが80歳の人でもその通りにできるかどうかはわかりません。
このことが大きな問題です。
良いことをして悪いことを慎むということは常識や道徳に合致していて、とても分かりやすい。
分かるけれどもその通りできているかと問われれば、返答に窮することがあります。
教えがいくら立派で尊くても、自分とかけ離れたものであったならそれは教えとして成り立ちません。
そのことを突き詰め、身をもって悩み、仏さまに教を仰ぎながら生きられたのが親鸞聖人です。
1173年に生まれ1263年に亡くなられるまで90年のご生涯で阿弥陀さまの教えをお喜びになり、そしてその内容を私たちに明らかにしてくださいました。
多くの書物を残しておられますが、その書物も大体50歳以降、特に80歳代ぐらいになってから多く著しておられます。
「歎異抄(たんにしょう)」という書物の中に「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」という一文があります。
「業縁」とは、いろいろな条件の巡り合わせによって、私たちはどんな極悪な行ないをもしうる可能性をもっているということです。
「業」とは、結果を導く原因をもった力という意味です。
仏教では「三業(さんごう)」といい、「身・口・意(しん・く・い)」という結果を引く心と体の動きのことを表しています。
また、親鸞聖人は仏さまが自分のことを「憐れでならない」とおっしゃっていると書かれています。
この「憐れ」という字ですが、左側はりっしんべんといい、心が立つことを表しています。
右側のつくりは「米」のしたに「舛」で、ゆらめきながら灯り続いている火を表しています。
心が立って、ゆらめき続けている火のような状態が「憐れ」という字の意味です。
つまり、一方的な願いが続いていることを言い表しています。
一方的な願いがかけ続けられているから私を憐れんでくださっているということです。
仏さまは「どんどん遠ざかっていくあなたを何とかせずにはおれない」とおっしゃいます。
親鸞聖人が明らかにしてくださったお念仏の仏教のスタート地点はまさにここです。
良からぬ方角に向かっていく人間を救ってお浄土へ迎える。
これが仏さまの根本の願い(本願)なのです。
仏さまが一方的に願いをかけ続けてくださっているのです。