ひらかれていた道といのち(後期)お念仏は言葉になった仏さま

近角常観(ちかずみじょうかん)というお坊さんがおられました。

東京大学の目の前に求道(きゅうどう)会館をお建てになり、若者たちに親鸞聖人のみ教えを伝え広めた方です。

大正11年に相対性理論で有名な天才物理学者のアインシュタイン博士が来日された際に「日本の仏教者と話をしたい」とお望みになったのですが、博士のお世話係を務めていた若者が、この方しかいないと心の中に思い浮かんだのが近角先生でした。

そして近角先生とアインシュタイン博士の対談が実現しました。

近角先生は求道会館ではいつも阿弥陀さまのお話、お念仏のお話をなさっていましたが、アインシュタイン博士に対して例え話として話されたのが棄姥(きろう)伝説でした。

雪深い寒村で食い扶持を減らすために村の掟に従い、年老いた母親を息子が山奥に捨てに行くという話です。

息子の背中に負ぶられ山奥に連れられていく母親は、道中手の届くところの枝を次々に折っていきます。

ついに捨て場所に着き、母親を置いて息子が山を下りて行こうとしたとき、息子の背中に向かって母親が言うのです。

「お前よ、気をつけて帰るんだぞ、お前の帰り道は枝を折っておいたから、迷わないようにして帰るんだぞ」という内容です。

「奥山に枝折るしおりは誰がためぞ、親を捨てんと急ぐ子のため」という歌にもなって伝わっています。

お念仏というのは、言葉になった仏さまです。

仏さまがこの私を憐れに思って、一方的に言葉にしてくださったのが「南無阿弥陀仏」というお念仏です。

昨年8月の朝日新聞の声欄にこのような寄稿がありました。

(主婦上杉たつさん、熊本県89歳)父は早くに亡くなり、我が家の父がわりだった長兄、上の兄は熊本から朝鮮半島にわたり教師になって間もなく現地で招集されました。

兄の部隊が福岡にいるとの報が届いたのが44年夏、明日出港と聞いて母と駆けつけ、翌朝近くの神社で兄と会いました。

兄は支給されたばかりのキャラメルを私の手に握らせ「お前は先生になっておっかさんの世話を頼む」16歳の私は何か言えば泣きそうで頷くばかりでした。

母には「輸送船10艙のうち3艙が目的地に着けば良いほうといいます。今日が最後の別れと思ってください」母は気丈でした。

「もしもの時が来たらあんたは南無阿弥陀仏と称えなさい。何も分からんでよか、南無阿弥陀仏を」

いよいよ出発のとき、点呼が始まり「いち」「に」「さん」「し」の後「ご」と、ひときわ大きな兄の声が響きました。

それが兄の最後の別れの挨拶でした。

マニラ沖30マイルで撃沈、最後の知らせにはそうありました。

今から何かを・・・と思っても間に合いません。

今すでにひらかれていないと間に合わない私たちにくださったのが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

ありがたいと思うから念仏をする、ありがたいと思わないから念仏しない、そういうことではなくて、お念仏できること自体が実はありがたいのだと思います。

すでにひらかれていた道がお念仏の仏道です。

共々にお念仏を称える中で、お浄土への日暮らしを歩ませていただきたいと思います。