アフガンに命の水を(前期)医者がなぜ河川工事をするのか

ご講師:中村 哲 さん(PMS総院長・ペシャワール会現地代表)

私は、一カ月前にはアフガニスタンの川の中にいました。

医者がなぜ河川工事をしなければならないのか、まずアフガニスタンの国情から説明したいと思います。

アフガニスタンは、鹿児島から真西の方向6000キロメートルのところにあり、ヒマラヤ山脈の西端、標高7000メートル以上のヒンドゥークシュ山脈が国土の全体を覆っています。

面積は日本の1.6倍ほどで、2000万人以上の人々が生活しています。

乾燥した中央アジアの一体で2000万人もの人が暮らしていけるのは、山に降る雪のおかげです。

多くの人々は、この山の中で農業を営む農民です。

夏になると雪が少しずつ溶けてきて川沿いに豊かな緑を約束し、人も動物も植物も命を繋いできたのです。

水さえあればお日さまの恵みが反映され、豊かな農業生産ができます。

アフガニスタンは40~50年前までは食料自給率が100%近い数字を誇っていた農業国なんです。

そして日本とは違い多民族国家であり、中央集権とは言い難い地方のひとつひとつが小さな国でその集合体というような国です。

貧富の差もあり、富裕層は大した病気でもなくても外国の大都市に行き治療を受けることが可能な一方で、99.99%の人々は数十円のお金がなくて薬が買えずに死んでいくのです。

現地には、私たちの活動母体であるピース・ジャパン・メディカル・サービス(PMS)という団体があります。

支えているのは日本のペシャワール会という団体で、年間約3憶円前後の運営費はすべて募金に頼っています。

私たちは少ない資金でいかに多くの人々に恩恵を施すかということに配慮しています。

私たちの活動は、今から34年前パキスタンのペシャワールで「ハンセン病のコントロール5カ年計画」に参加するという形で始まりました。

アフガニスタンはこの40年、内乱が続いてきた国です。

私が赴任した1984年は内乱が最も激しい時期でした。

ソ連軍が侵攻して、国民の1割にあたる200万人が死亡し、さらに600万人が難民となって隣のパキスタンやイランに逃れるという状況でした。

最初は難民キャンプで細々と診療していましたが、後に私たちは方針を転換し、アフガニスタン国内の診療に切り替えました。

ハンセン病以外の病気、腸チフス、結核、マラリアなどの患者も多いことから、ハンセン病だけを特別扱いにせず、他の患者も診療するという方針のもとに、山間部に診療所建設を進めました。

赴任して15年が経ち、医療体制も整い、これからというときにアフガニスタンを襲ったのが、とんでもない干ばつでした。

診療所の周りで次々と村が消えていきました。

数カ月前まで何千人もの人でにぎわい、緑豊かな田畑が広がっていた集落が、半年後には完全に砂漠になってしまうということが次々と起こりました。

WHO(世界保健機関)が数字をあげて世界中に警告しましたが、政治的な理由により国際援助は行われませんでした。

私たちの診療所でも次々と病人が倒れていきました。

多かったのは赤痢で、多くの犠牲者は子どもでした。

水がないと子どもは我慢できずに生活排水を飲んでしまうので、赤痢にかかりやすいのです。

食べ物がとれないがために栄養失調で抵抗力が著しく落ちてしまい、簡単には死なないような病気でも死んでしまうのです。

いくら薬をつぎ込んでも犠牲者を減らすことができず、私たちは医療の無力さを知りました。

そこで私たちは医療も大事だが、その前に「清潔な水と十分な食べ物を」というスローガンを掲げ活動を開始しました。

まずは清潔な水の確保です。

残った村人たちを集めて、枯れた井戸を再生し始めたのが2000年8月頃です。

その後3年間で約1600カ所に井戸及び清潔な飲料水の水源を確保しました。

2001年の9月11日、ニューヨークで大きなテロ事件が発生し、翌日からテロリストを匿っているアフガニスタンに報復爆撃をしろという声が上がりました。

私たちは驚いて、真っ向から反対の意を唱えました。

当時、実情を知っている我々は「アフガニスタンは今戦争どころじゃない、皆死にかけている。そこに爆弾まで落として犠牲者を増やすことはない。今この国に必要なのは水と食べ物である」と訴え、募金を集め、食料配給を敢行しました。

しかし国際的に大きな声とは成りえず、空爆が行われました。

攻撃する側は人道的な攻撃と主張しましたが、実際は無差別攻撃であり、真っ先に犠牲になったのは女性、子ども、体の不自由な人、お年寄り、このような弱い人たちでした。

爆弾で私たちのスタッフが即死するという事態も考えられましたので、食料配給を行う際には、職員20名を3つの隊に分け、無事に数十万人の人々に冬が越せるだけの食糧を配ることができました。

これらの活動を支えたのは、同朋のためなら命も顧みないという勇敢なアフガニスタン人の職員たちの底力です。

タリバン政権が倒れ、以前に比べて自由になりましたが、私たちは今までとおり大部分の人がそこで生活し、しかも喘いでいる干ばつに対して対策を講じる方針を変えずに活動を続けました。