『花はあるがままに咲いて美しい』(中期)

あなたは、見栄(みえ)をはると、何となく肩がこったりするような気がしませんか。

「見栄」というのは、「うわべを飾る。外見をつくろう」という意味ですが、どうして私たちは、日頃思わず見栄をはったりするのでしょうか。

見栄をはる、つまりうわべを飾り、外見をつくろうってしまうのは、きっと「自分の本当の姿を他人に見られたくない」と、無意識の内に思ってしまうからかもしれません。

では、「他人には見られたくない自分の本当の姿」って、いったいどのような姿なのでしょうか。

人は誰もが、心の奥底に「理想の自分」の姿を思い描いているのですが、残念ながら大半の人における現実の自分の姿は、決して理想の自分の姿とは重なっていません。

そのため、「理想通りではない今の自分の姿は、本当の自分の姿ではない」という思いがはたらいて、その思いが無意識の内に自分のうわべを飾らせたり、外見をつくろわせたりしてしまうことになるのだと思います。

でも、その一方で、そんな飾ったりつくろったりした自分は、本当の自分でないことは、誰よりも自分自身が一番よく知っています。

それだけに、余計に飾ったりつくろったりしたものの重さが、肩をこらせてしまうことになるのではないでしょうか。

だから、見栄なんか捨てて、身軽になりましょう。

自分で自分を好きになれないようなら、きっとそんなあなたのことを、誰も好きになってはくれないと思います。

たとえそれが、自分の理想の姿ではなくても、「自分大好き」けっこうじゃないですか。

他人の目なんか気にしないで、これからはありのままの自分を愛せるような生き方…、してみませんか。

「花から取りのぞけるものはない 花に付け加えるものもない(星野富弘)」と言われます。

まさに、花は飾ったりつくろったりすることもなく、あるがままに咲いて、それで十分に美しいのです。

思えば、私たちは「幸せ」を願いながら、いつも「あの人みたいだったら、幸せな人生なのに…」と、自分より良い境遇にある人をうらやんでは、そうではない自分を不幸だと歎き、その一方で自分より悪い境遇にあえいでいる人を見ると、「あの人よりは幸せな方だ」と自身を誤魔化したりしています。

けれども、他人との比較の中では、ついに本当の喜びは得られません。

花があるがままに咲いて、自らを全うしていくように、他人と比較するのではなく、「私、誰の人生もうらやましくないよ」と言えたとき、私は私の人生を十分に生き尽くすことができるのだと思います。