私たちは日常、
「ありのまま」とか、
「そのまま」
ということがあります。
一見、心地よく聞こえてくる言葉なのですが、しかし、ある意味では大変な言葉です。
何故なら、煩悩(迷い)に覆われ、真実を見ることができない私たちの眼で見るのと、如来様の真実智慧の眼で見える世界は真反対といっていいからです。
「誕生」
という言葉を聞いたときに、私たちは何を感じ、どう思うでしょうか。
「お誕生日おめでとう」
という様に、お祝い、おめでたいことというのが私たちの受け止め方でしょう。
しかし、
「誕生」の
「誕」という字は、
「言う」という字と
「延ばす」という字から成り立っていますので、
「誕生」とは
「口で言って引き延ばす」
ということです。
つまり、
「ごまかす・ごまかしをする」
ということで、そこから
「嘘・偽りの中に生れ出る」
という意味となり、転じて
「苦しみの中に生れ出る」
ということになります。
如来様の真実智慧に照らされた私の姿は、生死の苦海に生まれ出でながらも、そのことに目覚めることなく、苦悩しながら生きる
「苦悩の衆生」
です。
そして、その私を必ず救うと誓われたのが、如来様のご本願でありました。
限りある命を生きながらも、そのことを自覚することもなく、迷い苦悩しながら生きている私。
けれども、限りあるこの命が終わるとき、
「必ず、すべての命あるものが、我が国に生まれることがなければ、決して私はさとりを開きません」
とお建てになられたのが、ご本願でありました。
私たちは、この私の命が終わることを
「死」
とよびます。
そしてときには忌み嫌い、避けようとし、様々な迷信に惑います。
けれども、この私の命が終わることを如来様は、
「往生」
とおっしゃいました。
私の迷いの眼には、忌み嫌うべき
「死」
と見えるかもしれませんが、如来様は
「死」
ではなく、
「往生…お浄土に往き生まれること」
だといわれたのです。
この故に、先人の方々は往生を
「めでたいこと」
と領解されたのでしょう。
「自燃…ありのまま・そのままに」
とは、この如来様の真実智慧に照らされ、生死の苦海を生きながらも、
「必ず救う、まかせよ」
との、如来様のご本願をよりどころにして生きることでしょう。