その晩、尋有は先に臥床を出て、大乗院の外に忍んでいた。
ぽつ――と冷たいものが頬にあたった。
雨である。
しかし、雲が明るい、綿のような雲が翔(か)けている。
「降らねばよいが」
夜ごとにこの闇を歩む兄の身を思いやって祈るのだった。
静かな跫音(あしおと)が今山門を出て行った。
範宴である。
勿論気づいているはずはない。
尋有はその後から見え隠れに兄の影を追って行くのだった。
昼ですら危険の多い横川の谷間を、範宴は、闇を衝いて下って行く。
なにか、赫々(かっかく)とした目的でもあるような足だ。
むしろ尋有のほうが遅れがちなのである。
渓流にそって、道は白川へ展(ひら)けている。
そのころから風が変って、耳を奪うような北山颪(おろし)に、大粒な雨がまじって、顔を打つ、衣を打つ。
すさまじい空になった。
黒い雨雲がちぎれて飛ぶ間に、月の端が、不意に顔を出すかと思うと、一瞬にまたまっ暗になった。
がらっと鳴る水音は、絶えず足もとを脅(おびや)かすのである。
尋有はともすると見失いそうな先の影に、喘(あえ)ぎをつづけていた。
草鞋(わらじ)の緒(お)でも切れたのではないか。
範宴は浄土寺の聚落(むら)あたりで、辻堂の縁にしばらく休んでいた。
禅林寺の鐘の音が、吠える風の中で二(に)更(こう)を告げた。
「この道を?いったいどこへ行こうとなさるのか」
いよいよ、兄の心が尋有には謎だった。
粟田山の麓(ふもと)から、長い雑木林の道がつづく。
水をもった落葉を踏んで飽かずに歩むと、やがて、黒い町の屋根が見え、三条(さんじょう)磧(がわら)の水明りが眼の前にあった。
河はもうこの一降りで水量(みずかさ)を増していた。
濁流が瀬の石に白い泡を噛んでいる。
五条まで下がれば橋はあるが、範宴は浅瀬を見まわしてそこを渡渉(こえ)て行こうとする。
「あ、あぶない」
尋有は、自分の危険を忘れて、河の中ほどまで進んだ兄の姿に気をとられていた。
法衣(ころも)のすそを高くからげても、飛沫(しぶき)は腰までかかるのだった。
それに、この水の冷たさはどうだろう。
尋有は歯をかみしばって、一歩一歩、河底の石を足の爪先で探りながら歩いた。
と――砂利でも掘ったような深い底へ、尋有は足を踏み入れた。
あっ――と思った時はもう迅い水が喉首(のどくび)を切って流れていた。
「兄君――」
思わず尋有は叫んでいた。
そして、四、五間ほど流されて、水面に手をあげた時、範宴は水煙(みずけむ)りを上げて、彼の方へ駈け戻ってきた。