小説・親鸞 2014年9月1日

その晩、尋有は先に臥床を出て、大乗院の外に忍んでいた。

ぽつ――と冷たいものが頬にあたった。

雨である。

しかし、雲が明るい、綿のような雲が翔(か)けている。

「降らねばよいが」

夜ごとにこの闇を歩む兄の身を思いやって祈るのだった。

静かな跫音(あしおと)が今山門を出て行った。

範宴である。

勿論気づいているはずはない。

尋有はその後から見え隠れに兄の影を追って行くのだった。

昼ですら危険の多い横川の谷間を、範宴は、闇を衝いて下って行く。

なにか、赫々(かっかく)とした目的でもあるような足だ。

むしろ尋有のほうが遅れがちなのである。

渓流にそって、道は白川へ展(ひら)けている。

そのころから風が変って、耳を奪うような北山颪(おろし)に、大粒な雨がまじって、顔を打つ、衣を打つ。

すさまじい空になった。

黒い雨雲がちぎれて飛ぶ間に、月の端が、不意に顔を出すかと思うと、一瞬にまたまっ暗になった。

がらっと鳴る水音は、絶えず足もとを脅(おびや)かすのである。

尋有はともすると見失いそうな先の影に、喘(あえ)ぎをつづけていた。

草鞋(わらじ)の緒(お)でも切れたのではないか。

範宴は浄土寺の聚落(むら)あたりで、辻堂の縁にしばらく休んでいた。

禅林寺の鐘の音が、吠える風の中で二(に)更(こう)を告げた。

「この道を?いったいどこへ行こうとなさるのか」

いよいよ、兄の心が尋有には謎だった。

粟田山の麓(ふもと)から、長い雑木林の道がつづく。

水をもった落葉を踏んで飽かずに歩むと、やがて、黒い町の屋根が見え、三条(さんじょう)磧(がわら)の水明りが眼の前にあった。

河はもうこの一降りで水量(みずかさ)を増していた。

濁流が瀬の石に白い泡を噛んでいる。

五条まで下がれば橋はあるが、範宴は浅瀬を見まわしてそこを渡渉(こえ)て行こうとする。

「あ、あぶない」

尋有は、自分の危険を忘れて、河の中ほどまで進んだ兄の姿に気をとられていた。

法衣(ころも)のすそを高くからげても、飛沫(しぶき)は腰までかかるのだった。

それに、この水の冷たさはどうだろう。

尋有は歯をかみしばって、一歩一歩、河底の石を足の爪先で探りながら歩いた。

と――砂利でも掘ったような深い底へ、尋有は足を踏み入れた。

あっ――と思った時はもう迅い水が喉首(のどくび)を切って流れていた。

「兄君――」

思わず尋有は叫んでいた。

そして、四、五間ほど流されて、水面に手をあげた時、範宴は水煙(みずけむ)りを上げて、彼の方へ駈け戻ってきた。