誰もが「人間に生まれた以上、幸福になりたい」と思っています。
それは今に始まったことではなく、人間はその誕生以来、よりよい生活、つまり「幸福」を願い、それを実現するための手立てを考え実行してきました。
そして、それを自分の世代で実現できない時は、次の世代へ、さらにまた次の世代へとバトンを渡すようにして託してきました。
その営みの繰り返しが、まさに私たち人間の歴史であり、進歩・発展を遂げて結実したのが現代の社会だと言えます。
ところで、なぜ私たちは幸福を求めるのでしょうか。
それは、おそらく「今の自分は幸福ではない」と思っていたり、あるいは「こうなったら幸福なのに…」という思いがあったりするからではないでしょうか。
もちろん、そのような思いの積み重ねが人類の進歩と発展に大きく寄与してきたことは紛れもない事実ですが、一方では限りあるいのちを生きる人生にあって、幸福獲得のために生涯を尽くすということは、見方を変えれば、常に「幸福ではない」という事実の上に立って幸福を得ようと努力している在り方に終始していることになります。
そして、おそらく私たちは生きている限り、その営みをやめることはできないような気がします。
そのような私の姿を客観的に見ると、現在に生きている私が未来というものに幸福を夢見、逆に未来に夢見た幸福な自分の姿から現在の幸福ではない自身というものを悲しんでいるといった姿が見えてくるのではないでしょうか。
本来、幸福とは現在において実感できるものでなければ意味はないのですが、私たちが未来に幸福を求めるということの根底には、現状においては幸福を未来に求めなくてはならないような不平不満の状態にあるということがあるからだと言えます。
一般に「隣の花は赤い」とか「隣の芝生は青い」と言われるように、私たちは他人のものは自分のものよりもよく見えるものです。
つまり、私たちはいつでも他と比べてしか自分の幸福を考えることができないというありかたに終始しているのです。
したがって、私たちは幸福を求めて生きているのですが、事実においては幸福とはいつでも他人の上にあるということになります。
しかも幸福は現在における自分の上にはなく、その大半はいつも未来にあって夢見られるものになっていたりします。
けれども、いつもそれでは何ともやりきれないので、今度は別の方向に目を向けて、自分より不幸に思える人と自分との境遇とを見比べて、「まあ、自分は幸せな方ではないか」と、自らを納得させることで不平不満の解消に努めたりしています。
それは、状態は何も変わらないのに、自分より幸福な人を見ては自身を不幸だと歎き、自分より不幸な人を見ては自身は幸福な方だと誤魔化している在り方にほかなりません。
そして、常に他人との比較の中で、不幸と幸福との間を行ったり来たりしているということになります。
これは、良く言えば生きる上での知恵であり、悪く言えば現状への妥協ということになります。
言うなれば「まあまあと自分を抑える処世術」ということになりますが、やはり本当の幸福を得られない限り、私の一生は無駄に終わってしまうのではないでしょうか。
親鸞聖人の文章の中に、「空過」という言葉がしばしば出てきます。
「空過」というのは、「空しく過ぎる」ということですが、親鸞聖人が何よりも問題視されたのは、生涯において縁にふれ折りにふれ突如として襲いかかって来る大切な人との死別の悲しみでもなければ、悲惨な出来事との遭遇でもなく、本当の幸福を得ない限り、善きにつけ悪しきにつけ、自身が出遇う一つ一つの事実の全てが空しいものに終わってしまうということでした。
したがって、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみ悲しみが本当の意味で空しいものとはならない。
悲しみの中にも人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄でなかったというものが感じられない限り、人間の一生というものはどれほど生きても、真の意味で「生きた」とは言えないのではないか、これが親鸞聖人が問い続けていかれたことだと思われます。
人間は、幸福を追い求めて生きているのですが、現実に安んじるという道を見出せなければ、やはり私たちは「空過」なるままに人生を終えることになってしまわざるを得ません。
したがって、真の意味で「生きた」と言うためには、「私は誰の人生もうらやましくないよ」という生き方を見出す以外に道はないではないでしょうか。
私たちは人間として生きる限り、どのような生き方をしていても縁にふれ折りにふれ、辛いことや悲しいことに出遭います。
けれども、他人の目から見ると、たとえ苦難の多い大変な人生であったり不幸な人生に見えたとしても、「あなたには大変だったり、不幸に見えたりする人生であっても、この人生を生きて行くのは、また生きて行けるのは私しかいないのです」と、胸を張って答えられるような在り方が出来れば、私は私として生きて行くことに安んじることが出来ます。
そのことを明らかにしてくれるのが、まさにお念仏の教えなのだと言えます。