仏教では、私たち人間が自分中心的に自分のものさしで物事をはかり、思い通りにしようとするあり方を分別智(ふんべつち)といいます。
世俗において、「分別」という言葉は、世事に関して常識的で慎重な考え、判断する能力を指す意味があり、社会生活を営むうえでは必要不可欠なモノでもあります。
また、その反対語として「無分別」という言葉がありますが、一般常識や思慮を欠いた状態を指す意味として使われています。
この「分別」「無分別」は、仏教でもしばしば使われる言葉ですが、その意味するところは日常での用法とは正反対のものとして考えられています。
仏教で「分別」というときは、言葉や考えによって、こちらが勝手に作り出す妄想という意味があり、「無分別」は、そういった自分勝手な妄想にとらわれず、ありのままに正しい真理を理解することを言います。
私たちは何かを理解しようとすると、「分かる」という言葉が示すように、物を「分ける」ことによって事がまず始められます。
同じ「わかる」という漢字には「判る」(物事の善悪を区別する)とか「解る」(ばらばらにわける、ほどく)などがあるように、人間は一つのものをそのままでは知ることができず、「わける」事を通して初めて知ることが出来るのです。
ですから、私たちの知識で捉えられた世界は、必ず前後、左右、善悪、美醜などというような、相対的な姿であらわれています。
私たちはそうした「分別」なるモノの見方に自分自身が振り回されて、自他を比べる事で、時には優越感の中で安心したり、劣等感の中で苦しんだりしています。
しかし、いくらそこで安心したとしても、私たちの欲望にはキリがありませんし、この世のことはすべてにおいて移り変わっていくもの(諸行無常)ですから、あてにはなりませんし、本当の安らぎとはいえません。
しかしながら現代の社会は、特にこの「分別」の方向をひたすら押ししすすめてきているように思えてなりません。
あらゆる物事において、「分別」された姿は本来の形、ありのままの姿ではありません。
真の姿を捉えようとするならば、モノを分けて差別する「分別」をなくし、「無分別」によるしかないというのが、仏教の考え方です。
そしてまさにそれが仏さまのモノの見方、「無分別智」(むふんべつち)です。
相対的なモノの見方を離れた「無分別智」なる仏さまの教えを聞かせていただく中で、いま一度自分自身の有り様を省みる生き方が、仏教徒としての大切な生き方だと言えます。