先日、叔母が亡くなりました。
わたくしの4歳になる次男は、叔母の通夜、葬儀を勤めさせていただく中で、初めて人の「死」というものを、その幼いこころのなかに感じたようでした。
叔母の遺体を触りながら、
「どうしてこんなに冷たいの」
叔母が火葬されお骨になると、
「おばちゃんはどこにいったの?」
「お父さんも、僕もいつかこんなふうに骨になるの?」
など、初めて接する人の「死」に、衝撃を受けた様子でした。
「おばちゃんは、お浄土という仏さまの国に往ったんだよ。お父さんも、そしてお前もやがて同じお浄土に往くんだよ。」
などと話をしましたが、わたくしが親としてどれだけの言葉を使っても、重ねても、伝えきれない世界を、叔母が自らの「死」もって我が子に、そしてわたくし達に大切なことを伝えてくれました。
それはまさに仏さまのなせるわざだと、わたくしは感じさせていただきました。
「死」は高齢者だけの問題ではなく、老いも若きも幼きも関係なく、いのちいただくものすべてにおいて避けることのできない人生の大切な問題です。
それは遠い先のことではなく、わたくし自身の身の上に遠からず必ずあることなのです。
わたしのいのちは一瞬一瞬に過ぎ去り、決して止まることはありません。
それを「無常」とわたくしたちはいただいています。
昨日があり、今日があったごとく明日もあると、わたくしたちは慌ただしい日常の中で錯覚してしまいがちですが、過去はもう過ぎ去ったものであり、未来は現実としていまだ来たらざる不確かなものです。
実際にあるのは、いまあるこの一瞬のいのちだけなのです。
「無常」と言いますと、わたくしたちは別れの悲しさ、寂しさ、盛んなるものが衰えていく侘しさなどという、悲嘆の言葉に感じがちですが、それだけではなく、今日のいまをかぎりのこの一瞬一瞬いのちがいかに大切であるかを知らせてくださる言葉でもあります。
ほとけさまの教えの中に、今、生かされて生きているいのちの不思議をおもい、一瞬一瞬のご縁によって起こっている「縁起なるいのち」と大切にいただいていきたいものです。