「一期一会」という言葉があります。
これは茶道に由来する言葉で、
「茶会に臨む際は、その機会は二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くすべきである」
という、茶会での心構えを意味するものです。
けれども、この言葉は茶会に限定されることなく
「この出会いは、一生に一度だけの機会だとして大切にする」
という意味で、広く世間一般に用いられています。
確かに、私たちの人生はいつ終わるか誰にも予測することはできません。
もしかすると、初めての出会いが一生で一度きりの出会いになるということも少なからずあったりします。
それだけに、その時々の出会いにおいて、誠意をもって接するということは、とても大切なことであると思われます。
これと似たような言葉に「今日感会今日臨終」というのがあります。
これは、亡くなられた俳優の緒方拳さんが中国に旅行したとき、とある寺の山門に掲げられていた言葉として紹介されたものです。
緒方さんは、その著書の中で「この言葉に接したとき、頭を殴られたような感じがした」と述べておられます。
「今日感会」とは「今日あなたに会えてよかった」、「今日臨終」は「今日でいのちは終わる(かもしれない)」といった意味でしょうか。
緒方さんは、この言葉から一日一日精一杯生きることの大切さを感じられたそうです。
前者の「一期一会」という言葉からは、「この出会いは一度きりのものかもしれない」ということで、その時々の出会いにおいては常に誠意を持って臨むことの大切を学ぶことが出来るのですが、その根底にはまだ私の人生はこれからもまだ続いて行くといった若干の余裕めいたものが感じられます。
一方、後者の「今日感会 今日臨終」という言葉からは「今日で終わるかもしれない」という無常なる人生を生きている私の身の事実がさし迫ってくるような強い印象を受けます。
仏教は、私たちに「死」を通して「生」を見つめることの大切さを説いていますが、「今日臨終」という言葉からは、いつ死ぬか分からないいのちを生きている身であることを直視することを通して、かけがえのないいのちを悔いのないように生きていくことの大切さを教えられるように気がします。
ところで、今日の医学では、遺伝子についての研究分野がもっとも脚光を浴びているとのだそうです。
その中で、人間のいのちの営みがすべてこの遺伝子によるのであれば、人間がみんなやがて老いて死んで行くのは、人間に老いて行くことをもたらす遺伝子、あるいは死んで行くことをもたらす遺伝子が組み込まれているからに違いないという仮説を立て、いのちを老いさせて行く遺伝子や死に至らしめる遺伝子を取り除いたら、もしかすると
「人間は年をとったり、死ななくて済むようになるのではないか」
ということを真剣に考えて、一生懸命に研究している人たちがいるのだそうです。
もしその研究が実を結ぶことになれば、私たち人間はいつまでも若く死ななくても良いことになります。
では、私たちが何百年何千年経っても「死なない」ということになるとすれば、いったい人生はどうなるのでしょうか。
今日の社会では「超高齢化社会」という言葉で、人間の平均寿命が以前に増して10年、20年延びたというだけで、「どう生きるか」ということが大きな問題になっていますが、それが全く死なない、あるいは「死ねない」ということになったとしたらどうでしょうか。
そのようなことになれば、「今日」というこの「一日」は、私の人生にとっては何の意味も持たなくなってしまいます。
なぜなら、今日一日がどうあろうと、私たちは永遠に生きて行くのですから。
しかも、その何の意味もない毎日を永久に続けていかなければならないとしたら、そこには「生きている」ということに何の感動も感激も持ち得なくなってしまうのではないでしょうか。
この研究が実を結ぶとしても、それはまだ遠い将来のことでしょうが、少なくとも私たちは今、それぞれ老いて、やがて死んで行くという「いのち」の事実を人生究極の問題として個々に抱えて生きていかなくてはなりません。
そうであるにもかかわらず、私たちはともすれば「いのちの事実」から目をそらし、死を忌み嫌い、ひたすら「生」に執着する在り方に終始しています。
たとえ他の人は死んでも、自分だけは「まだ死なない」つもりで生きているかのようです。
振り返ってみますと、いつも忙しさを理由に「そのうち…」と口にしている気がしますが、これは「いのち」がいつまでも続くものという錯覚から語られる言葉だと言えます。
私たちは、「今日臨終」という事実を生きているのであり、まさに「人生はこの一瞬の積み重ね」に他なりません。
「限りあるいのち」を生きていることに目覚め、今を、一日を、そしてかけがえのない一生を大切に生きたいものです。