仏教は、二千五百年の歴史を持っています。
それは、二千五百年も前に説かれた教えだということです。
そのため、考えようによっては、現代の私たちの生き方にそぐわないことを説いているのではないかとの疑念がわいてきます。
ところが、その教えを聞くと、二千五百年前も現代も、私たちの心のありようは少しも変わっていないことが知られます。
『仏説無量寿経』に「五悪段」と呼ばれている一節があり、人間社会の様々な悪相が描かれているのですが、それがあまりにも現代社会のすがたと重なっていることに驚かされます。
引用すると次の通りです。
また、この世には五つの悪がある。
一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている。
二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべてそれぞれ己の道がなく、守るところもない。
ただ、己を中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。
三つには、だれも彼もみな邪な思いを抱き、淫らな思いに心を焦がし、男女の間に道がなく、そのために徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。
四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。
ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。
五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。
(『仏教聖典』おしえ第四章煩悩第四節迷いのすがた)
私たち人間社会のすがたが、このようにとらえられています。
この表現には、概ね納得させられるものの、その一方、自分や自分の家庭はここまでひどくはないと、ひとごとのように思う人が多いかもしれません。
けれども、自分の心を偽りなく見つめると、どうでしょうか。
果たして、私たちはそれほど正しく道を歩むことができているでしょうか。
そして、何よりもこの私は、このような過ちを絶対に犯さないという、正しく道を歩むことのできる教えを持っているかどうかを、自身の心に問いかけてみて頂きたいのです。
『歎異抄』に、私たちは縁によって何をなすかわからない危うい存在であるということが説かれています。
私たちは、置かれている状況によって、いかなる振る舞いをも行いかねない存在です。
過去を振り返った時は、その行為の善悪を判断することはある程度可能でも、今なしていることについては、常に自分にとって正しい、善だという判断に基づいて行っているので、真の意味で善悪の判断は非常に困難になります。
確かに、「親子、兄弟、夫婦、親族が、自分を中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあっている」といったことは例外的なあり方で、ほとんど起こり得ないことだと考えられます。
けれども、些細なことが原因で、実に多くの悲劇が起こっています。
「互いに善い行為をすることを考えず、ともに教え合って悪い行為をする」ことも、一般社会においては考えられないことですが、今日、世界を震撼させているテロ事件など、「聖戦」の名のもとに繰りかえされています。
テロ事件を起こしている人たちは、互いに励まし合って、善い行為をしていると信じて疑わないで行っているのですが、実は自分たちの行為をどこまでも正当化するために、ともに教え合って悪い行為をしているのだといわざるを得ません。
一般に私たちは、「五悪段」を読むと、自分をその外に立たせて、この内容を眺めます。
つまり、自分を善人の側において、世間の悪を歎いたり、憂いたりしているのです。
ところが「五悪段」では、「自分だけが偉いものであるかのように考え」と、そのような私の心を明らかにしています。
それは、私たちの心は、まさにここに示されるような心でしかないことを明らかに教えているのだと言えます。
親鸞聖人は「善人でさえも往生する。
ましてや悪人はなおさら往生する」と言われますが、親鸞聖人においては、本当の自分の姿を知らないものを「善人」、自分の本当の姿を見つめて知ったものが「悪人」ということになります。
人は、仏法を聞いて初めて本当の自分の姿を知り、悪の自覚において、自分の愚かさを悲嘆し、なんとか正しい仏道を歩みたいと願うようになるのです。
どれほど時代が変わっても、人間の本質は少しも変わっていないことが、教えに照らされることによって明らかに知られます。
だからこそ、仏教はいつの時代にあっても、その教えに真摯に耳を傾ける人を真実に目覚めさせ、生きる勇気を与えてきたのだと言えます。